とある企業の恋愛事情 -ある社長秘書とコンビニ店員の場合-
 あとから社交辞令でした、なんてことになっても嫌なので、俊介はすぐに約束を取り付けた。

 俊介は土日祝日が休みだが、綾芽のことを考えて土日は避けて、平日の月曜に行くことになった。月曜なら人も空いているし、道が混むようなこともないはずだ。

 翌日、聖に有給休暇を申請すると、「理由の欄にデートって書かないと」、とからかわれた。

 思えば、私的な理由で────しかもデートを理由に有給を消化したのは初めてかもしれない。家の用事で何度か休むことはあったが、執事の時は休むことがほとんどなかったため休もうとも思わなかった。そういう意味では、初めて自分のために休むのかもしれない。



 約束した月曜、俊介は綾芽の近所の駅まで迎えに行った。

 今回行く場所が電車では向かいづらい場所にあるため、俊介の車で向かうことになったのだ。

 ほぼ社用車と化しているから、こうして遊びに出かけるために使ったことは初めてだ。それほど高い車ではないが、綾芽の場合はその方が好都合だろう。

 駅のロータリーで待っていた綾芽はイベントの時よりもシンプルな格好をしていた。白いノースリーブのトップスの下はゆったりしたデニムパンツ、肩にはこの間羽織っていた淡い紫色のカーディガンが掛けられている。それと白いサンダルを履いていた。見たことがない服もあるが、買ったのだろうか。それとも元々持っていた物だろうか。

 イベントの時のように女子らしいふわっとした格好でくることを予想していた俊介は、その装いにいささか驚いた。

 ────まぁ、普通男の車に乗るのにそんな格好で来ないか。

 彼氏ならともかく、自分達はまだただの友人だ。信頼していると言っても、綾芽もそこまで気を許していないだろう。だが、海に行くならば適当な格好だ。

 綾芽は俊介の車がロータリーにピタリと停まるとおずおずと近づいて来た。お邪魔します、と言って車の扉を開けた。

「悪いな、待たせたか?」

「いえ、さっききたばかりです」

「今日はそこそこ暑いらしいから、車でよかったかもな」

 綾芽がシートベルトを締めたのを確認して、アクセルを踏んだ。

 目的の海水浴場は高速を使って大体二時間ほどかかる。途中サービスエリアでなんとか休憩を挟みながら行けば、昼前には目的地にたどり着いた。

 海水浴場にはチラホラ人がいた。こんな平日でも、意外に人は来るものだ。見回す限り両手に収まるぐらいしかいないから、おかげで落ち着いて散歩できそうだ。

 俊介は綾芽と波打ち際をのんびりと歩いた。白い砂浜はウミガメが来るぐらい綺麗だと評判の海水浴場だから、ゴミもまったくない。所々流木や貝殻が落ちているが、それはオブジェとして楽しめた。

「海に来たの、もう随分久しぶりです」

 綾芽は水平線の方を眺めながらサンダルを海水に浸けた。

「どのぐらい前に来たんだ?」

「いつでしょう。多分小学生ぐらいの時だと思います。家族で行ったんですけど……」

  だが、綾芽の表情は暗い。あまり楽しい思い出ではなかったのだろうか。

 彼女は父親が残した借金を返済している。どういう家庭かは知らないが、うまくいっていなかったのかもしれない。

「本当は海が嫌だったらごめん。俺に付き合って無理してるなら────」

「いえ、そんなんじゃないんです! 海が嫌いなんじゃなくて……」

 綾芽は申し訳なさそうに首を垂れた。

「……うちは、典型的な亭主関白の家だったんです。母は専業主婦で、父はことあるごとに『俺が食わせてやってるんだ』、『誰のおかげで飯が食えてるんだ』、そんなことばかり言う人でした」

 綾芽は不愉快そうに顔を歪めた。そんな父親が好きではなかったのだろう。五百万も借金を残すような父親だ。俊介は理不尽な男の姿を思い浮かべた。

「遊びに連れて行ってくれたこともありましたけど、俺がしてやってる感がすごくて。家族旅行は好きじゃありませんでした」

「……嫌なこと思い出させて悪かった」

「私こそごめんなさい……私、青葉さんと出会った初めの頃、すごく失礼な態度ばかりとってましたよね。どうしても、人に頼りたくなかったんです。お金を使わせるのも嫌で、そうしないと父の時みたいになるような気がして……」

 出会った当初、綾芽は本当に申し訳なさの塊のような人間だった。けれど毅然としていて、他人の力を借りることを極端に恐れていた。

 それもその父親の元で育ったからなのだろう。人の金で食事したり物を買わせることに抵抗があるのも、父親のことが頭をよぎっていたからなのかもしれない。

「……答えたくなかったらいいんだが、お母さんはどうしてるんだ……? お父さんは亡くなったって言ってたけど……」

「母は……私が高校の時に父に愛想を尽かして出て行きました。父はキャバクラで飲んだ帰りに転落して亡くなりました。ドラマみたいですよね」

 綾芽は笑っていたが、それは侮蔑の意味だろう。俊介は返す言葉に迷った。どうやら自分が思っていたよりも家庭環境はよくなかったようだ。

 ということは、彼女は父親の借金を一人で返しているということになる。 五百万を一人で返すのだ。彼女も自分の生活があるから、恐らく完済し終えるまでに十年ぐらいかかるのではないだろうか。どおりで最初食事に行った時メニュー表を見て固まっていたわけだ。

「辛くないのか……?」

「実は、そういう気持ちはないんです。むしろせいせいしたって思ってます。でも、そのせいで劣等感とか羨ましさとかを感じることもあります」

 綾芽はまだ二十一歳だ。本当なら大学に行っていたかもしれない。就職してOLをしていたかもしれない。年相応に遊んで、友達と旅行に行ったり買い物をしたり、彼氏ができていたかもしれない。親がいて、借金さえなければ普通の女の子だったのだ。

 俊介が黙っていると、綾芽は小さく笑みを浮かべた。

「でも、悪いことばかりじゃありません。いいこともありました」

「いいことって?」

「借金してなかったらお金のありがたみも分かりませんし、きっとこうやってどこかに出掛けたり、一緒に食事したり、なに気ないことでも当たり前だと思って通り過ぎてたと思います。青葉さんが作ってくださるお弁当も、もっと違う意味で捉えていたかもしれません」

「俺のはただのおせっかいだよ」

「私にとって、誰かにそうやって何かされることは苦痛でした。父みたいに相手のことより自分の自己満足でしてるだけみたいに思えていやでした。でも、青葉さんは本当に申し訳ないって思ってくれて、相手のことを考えて行動してるってわかります。だから────」

 綾芽ははにかんだように微笑んだ。俊介はまた返す言葉を失った。

 綾芽は随分自分のことを誤解しているらしい。自分はそれほど良心的な人間ではない。綾芽に喜んで欲しいという気持ちに嘘はないが、それらは全て自分のためだ。その冷たい表情が変わる瞬間を見たかったから。こうして彼女が笑う瞬間を見たかったからだ。

 君に借金があってよかったなどと言ったら綾芽は怒るかもしれないが、それがなければ自分達は会うことはなかっただろう。

 よくある物語のセリフに、「君のためならば僕はなんでもできる気がする」というものがある。今まさにそんな気持ちだ。
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