とある企業の恋愛事情 -ある社長秘書とコンビニ店員の場合-
「……っとにかく、薬とお水を飲んでください」

 青葉に薬の瓶を渡すと、彼は一気にあおった。あまり美味しい味ではなかったのだろう。不味そうな顔をしている。綾芽の手から水のボトルを受け取ると、それも半分ほど喉の奥に流し込んだ。

「家に帰れそうですか? 歩けますか?」

 青葉は一人で立ち上がろうとしたが、やはりまだ酒が抜けていないのかふらりとよろついた。意識はわりとしっかりしているようだが、一人で帰れるようには見えない。青葉は今日は車ではないから、電車で来たのだろうか。その方が余計に心配だ。

「青葉さん、家はどこですか」

「港区……赤坂────」
 
 青葉は思い出すように呟いた。今いる場所とかなり近い。それならタクシーで帰れそうだ。綾芽はタクシーを呼び止め、行き先を告げた。

 タクシーは十分もしないうちにその場所に着いた。だが、降りた瞬間、綾芽は「うわあ」と感嘆の声を上げた。

 住所を聞いた時点で大体予想はしていたが、青葉が住んでいるマンションはタワーマンションだった。綾芽が暮らしている小さなハイツとは比べ物にならない。藤宮コーポレーションの秘書をしているぐらいだ。ここに住むだけの稼ぎがあるということだろう。

 だが、マンションに見惚れている場合ではない。青葉を部屋に送り届けなければいけないのだ。綾芽は青葉に寄り添ってエントランスまで歩いた。

「青葉さん、鍵を────」

 いや、ここは鍵ではないようだ。エントランスの扉の前には九つのボタンキーが付いた電子版があった。どうやらこの扉は暗証番号で開くらしい。綾芽は恥ずかしくなった。自分が住んでいるアパートは普通のシリンダータイプの錠前だ。こういうマンションがそんなものを使っているわけがない。

「暗証番号、押してください」

 見ないようにとそっぽを向いた。青葉はちゃんと押せているだろうか。だが、エントランスの扉は無事開いた。

 しかし、またロビーにも驚かされる。曲線状のロビーはガラス張りになっていてライトアップされた庭が見える。廊下にはデザイナーズチェアが置かれていて、いかにも寛げる空間になっているが、自分には居心地が悪いだけだった。エレベーターを探し、奥の方にそれを見つけた。ここに来るまで大したことはしていないのに、妙に疲れた気分になる。

 中に入ると青葉は「23」のボタンをした。二十三階なんてものがあるのだ。自分は二階だが、二十三階なんかで暮らしたら鳥にでもなった気分になりそうだ。

 ちんと音を立ててエレベーターが止まる。これまた品のいい壁紙の廊下に出迎えられて、綾芽は再び青葉に尋ねた。

「青葉さんのお部屋はどこですか」

 小さな声が奥から二番目だ、と答える。綾芽はそこに向かって歩いた。部屋の前に着くと青葉は自分で鞄の中からカードキーを取り出した。ホテルの扉を開けるときのように玄関横につけられた機械にカードを通すと、かちゃりとロックが外れる音がした。

 綾芽は代わりに扉を開けた。のろのろと青葉は中に入っていく。心配になって後をついて行った。

 中は思っていたほど広くはなかった。単身者用のマンションなのか、キッチン、ダイニングは八畳ほどだ。だが、内装はかなり綺麗だ。キッチンの台は大理石のようなものでできているし、床もおしゃれなグレーの板だ。

 隣の部屋にはベッドが見えた。そこも同じぐらいの広さだ。

 青葉は中に入るなりソファに腰を下ろした。またぐったりしたように項垂れて、まるでそこで眠っているようだった。

「青葉さん、駄目です。寝るならちゃんとベッドで寝て下さい。風邪をひいてしまいますよ」

「……立花さんは、相手の具合が悪かったら誰にでもこうやって付いていくのか?」

「え……」

 青葉の掌がすっと綾芽の手首を掴む。青葉は顔を上げて恨めしそうに綾芽を見つめた。怒っているふうではない。だが、咎めているようで、どこか悲しんでいるように見えた。

「酔ったのが俺以外の────他の男でも、こうやって看病するのか」

「……そ、そういうわけじゃ……」

「じゃあ、なんでここに来た……? 俺をからかってるのか……?」

「違います……っ! 私は、あなたを心配して……」

 今更だが、男の部屋に上がるなど無用心な行動だ。だが、青葉だから信頼していた。それは襲われないとかそういう意味もあるが、そうなったとしても嫌ではないから────そういう意味もあった。

 青葉はいつも紳士的で、優しい。間違ってもそういうことにはならないだろう。

 ────と思っていた。

 不意に掴まれた手首が引っ張られて青葉の体にどん、とぶつかりそうになる。綾芽は慌てて片方の手で青葉の肩に手を付いたが、近付いてくる青葉の顔までは回避できなかった。

 突然のことで頭が追いつかない。青葉は押しつけるように唇を合わせた。綾芽が驚いて目をパチクリさせていると、青葉の腕は背中に回って、逃げ道を失ってしまう。

 それは一瞬では終わらなかった。唇はそのまま綾芽の唇を往復し、青葉の荒い息がすぐそばで聞こえた。

「あ……お、ば……さん……っ」

 青葉は無言のまま唇で責め続けた。押し退けようとする綾芽を屈服させるかのように。

 やがて綾芽から力が抜け、ぼんやりとした視線を送ると、追撃するように唇の間からにゅっと舌を押し込んだ。いやらしい音が響いて、また妙な気分になる。

 なぜ、青葉は突然こんなことをするのだろう。酒に酔っているだけなのだろうか。それでこんなキスをしたのなら、こんな残酷なことはない。

 綾芽は悲しくなって腕に力を込めた。

「い、や……っ! 青葉さ……やめ、て……っ。こんなの、いやです……っ」

 愛されてもいないのに求められたところで喜べるはずもない。酒に酔ってした行為だ。ただの過ちなどで片付けられるほど淡白にはなれなかった。

 ぼろぼろと瞳から涙が溢れる。青葉はふっと唇を離し、綾芽の涙に口付けた。

「俺のことが嫌いか……?」

そういうと、青葉の方がずっと悲しそうな顔をした。

「……違います。私は、ただ……あなたに……」

 好きになってほしい、などとどうして言えるだろう。その一言が聞けたらどんなことでも受け入れられたかもしれない。

 その一言がなければ、先程の行為はただ「酔った勢い」で終わってしまうのだ。今は甘い夢でも、明日になれば辛い現実になる。

 青葉は今度は優しくキスをすると、ぎゅっと抱きしめた。そして綾芽の肩に顔を埋めたまま、「綾芽が好きだ」と呟いた。

 瞬間、泣きそうになった。どれほどその言葉を待っただろう。青葉がその言葉を口にしてくれるのを、諦めながらもずっと待っていたのだ。

 綾芽は同じように青葉を抱きしめ、震える声で囁いた。

「私も、俊介さんが好きです」

 綾芽が頷くと、青葉は立ち上がって綾芽の手を引っ張った。そのままベッドルームに入ると、綾芽の体をベッドに押し倒した。

 見上げながら、綾芽はまた混乱した。青葉は一体自分をどうするつもりなのだろうか。そんなの決まっている。

 尋ねる前にまた口付けられた。ねっとりと、先程よりももっと深い口付けだ。差し込まれた舌が絡みついて、背筋がぞくぞくする。

 そのまま唇は下へと下りて、乱れた髪をかきあげると首筋に軽く歯を立てるように触れる。一瞬震えた体はすぐにまた青葉の立てる水音に支配される。

 あの真面目な青葉がこんな音を立てるとは思えない。そこにいるのは紛れもなく青葉なのに。

 そのせいか先ほどまで抱いていた恐れの感情も次第に薄れてきていた。普段の青葉と違うのに、その中にも彼の優しさのようなものが見えた。

 もういや、とは言わなかった。青葉が抱きしめれば安心したし、何度も聞こえるその言葉で、それぐらいのことは耐えられると思った。

 これは夢だろうか。夢なら覚めないでほしい。いや、青葉と出会った時から夢だったのかもしれない。

 青葉の掌が綾芽の掌に絡みついた。自分よりもずっと大きなその掌がギュッと握りしめる。その掌の温度を感じながら、綾芽も同じように握り返した。

 自分の上で、青葉の表情が切なげに歪むのが見えた。
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