とある企業の恋愛事情 -ある社長秘書とコンビニ店員の場合-
 ぬるま湯の中に浸かっているような心地よさだった。現実と微睡の中を彷徨いながら、綾芽はいつもの癖で目を覚ました。

 まだ、それほど日が高い時間ではない。アラームを仕掛ける時間もなかったからスマホは鳴らなかったが、今日ばかりは幸いだ。この穏やかな時間をあの煩い電子音に邪魔されては情緒もへったくれもない。

 いつもより柔らかい場所。ベッドの上だ。綾芽はすっと横に視線をやった。そこには青葉が眠っていた。

 夢ではなかったことに安堵しながら、昨夜の出来事を思い出す。青葉が自分を抱いたのは夢ではない。体にもまだわずかに痛みが残っていた。

 今更だが、自分はなんてことをしたのだろう。青葉を介抱するためとはいえ家に上がり込んで、挙げ句の果てに抱かれてしまった。結果的にはそれで青葉の気持ちが確認できたのだが、あまりいい行動ではない。

 綾芽はほんの少しだけ青葉に寄り添った。もう一度自分から抱きしめるような度胸はないが、今はこれだけでも十分幸せだった。

「う……ん……」

 綾芽が動いたからか、青葉は軽く身動いだ。やがて大きく息をつくと、眠そうに瞳を開けた。

 綾芽はその様子がおかしくて、思わず笑ってしまいそうになった。仕事場では完璧に見える青葉も、起きる時はこんなふうなのだ。

 青葉の瞳が綾芽の姿を捉える。ぼんやりしていた瞳は、驚いたように見開き、やがて体を起こした。彼はしばらく黙ったまま視線をキョロキョロさせていた。その表情はなんだか青ざめているように見えた。

「俊介さ────」

「《《立花さん》》……ごめん。俺、昨日────」

 その一言を聞いて綾芽は喉の奥から出掛かった言葉を止めた。青葉はまるで悪いことでもしてしまったみたいに、罰が悪そうな顔をしている。それを見ると、先ほどまで胸を温めていた気持ちは凍りついたように冷えた。

 ────あれは嘘だったの……? 酔った勢いでやってしまっただけ……?

 綾芽の瞳は涙で潤んだ。それは昨日泣いた時とはまるで違う意味だ。

「ごめん、立花さん……。俺は────」

「見ないでください」

 綾芽は青葉の顔を見ないまま起き上がり、慌ただしく着替えて逃げるようにリビングに置いていた荷物を持って部屋から出た。

 髪もぐちゃぐちゃで風呂にも入っていないが、もうそんなことにかまっていられなかった。

 綾芽はただ自分が惨めだった。あれは本当に夢だったのだ。青葉が自分に好きと言ったのも、単にその場の雰囲気に流されただけだったのだ。キスされて、抱きしめられて舞い上がっていた。なにを馬鹿なことを考えていたのだろう。

 タワーマンションを背に綾芽は一度だけ振り返った。

 こんなところに住むような住人が、自分のような借金だらけの小娘なんか好きになるはずがない。どうして馬鹿みたいに期待してしまったのだろう。

 マンションから住人らしき女性が高そうな服を見に纏ってヒールをかつかつと音を立てながら出てきた。自分の姿を見比べて、また惨めな気持ちになった。

 人の親切など信じなけれよかった。どうして青葉を無視できなかったのだろう。あの時信じなければ、こんなに悲しい思いをすることもなかったのに────。
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