とある企業の恋愛事情 -ある社長秘書とコンビニ店員の場合-
 青葉俊介、三十六歳にして初めて失恋を味わう。

 みっともない肩書きだが、今の自分を表す一番シンプルで分かりやすい表現だ。

 もう溜息も出なかった。悲しみを通り越して無だ。綾芽がバイトを辞めたと聞いてから、自分の中のやる気のようなものが底を尽きた。

 真面目にやっていることがなんだか馬鹿馬鹿しく思えて来て、けれどそうやっていると綾芽を傷つけたことを思い出して、また堂々巡りだ。

 真面目すぎて面白みのない自分を肯定してくれていた綾芽がいないのに、いったいどうしてやる気になんてなれるだろうか。

 とはいえ、長年聖の秘書としてやって来た経験則があるから、考えなくても手は動いた。まるでロボットだ。

 だが、頭では何も考えていないのに、ふとした瞬間綾芽のことを思い出して、無だった心はどん底に突き落とされる。

 聖の時はこれほどショックを受けただろうか。あの時もそれなりにショックを受けていたが、これほどではない。

「おい青葉、大丈夫か」

 俊介のデスクの横で、本堂が見えているか、とでもいうように手を振る。

「見えてるよ」

「どうした。ここ最近ぼうっとしすぎだぞ。またあの女と何かあったのかよ」

 なにか────。確かに、なにかあった。それもちょっとしたアクシデントではない。重大な事件だ。

 しかも毎度毎度自分の過失が大きすぎるのに、今度は百パーセント俊介の落ち度だ。

「またなんか失敗したのか? 心配すんな。そんなに気にしなくてもある程度うまくいってりゃ向こうだって────」

「もう無理だ」

「は?」

「完全にふられた」

 その言葉には魔力が宿っているようだった。そう言うだけで、どんどん綾芽に嫌われたような気分になった。もう顔も見たくないほど嫌われたというのに。

「ふられたって……告白したのか」

「した」

「それで、ふられたのか」

「……俺が順番を間違えたから、彼女を傷付けたんだ」

 ごめんと謝った瞬間の綾芽の表情はよく覚えている。あんな悲しそうな顔をした綾芽を見たのは初めてだった。

「今までの話じゃそれなりに気がある感じだっただろ。そう簡単に嫌いになるわけがねえ。なにがあった?」

 恐らく聖も尋ねてくるだろうが、この話を聖にしたら張り手を喰らいかねない。それならまだ本堂の方が話しやすかった。

 一部始終話すと、本堂は感心したように言った。

「真面目な秘書サマが随分進歩したもんだ。まぁ、多少問題はあるが……」

「多少じゃないだろ……大問題だ。俺はもう……」

「早まるんじゃねえよ。よく考えろ。相手は同意してたんだろ。それなら怒る理由はねえはずだ」

「じゃあなんで泣きながら出て行ったんだ。俺がいきなり手を出したからショックを受けたんじゃないのか」

「俺が知るわけねえだろ。よく思い出せ。相手がどの瞬間変わったか、見えてただろ」

 俊介はもう一度よく思い出した。思い出すと自分の情けない部分を思い知ることになるが、綾芽にはかえられない。

 眠りに着くまで綾芽はずっと自分と抱き合っていた。嫌がってる素振りは見せていなかったはずだ。

 その後目を覚ましてからだ。自分より早く起きていた綾芽は────俊介さん。そう言おうとしていた。

 思わずハッとした。自分は順番を間違えたことばかり考えていたが、綾芽は別のことを考えていたのではないだろうか。「ごめん」と言った瞬間、綾芽の表情は悲痛に歪んだ。

 自分が間違えたのは順番ではない。彼女に掛ける言葉だ。愛し合った後、どうしてもう一度言ってやらなかったのだろう。

 自分は本当に馬鹿だ。真面目以前の問題だ。女性とまともに付き合ったことがないからそんなことも分からなかったのだろうか。

 やっと綾芽が本音を口にしてくれたのに、なぜ受け止めなかったのか。ごめん、なんかよりももっと言うべき言葉があったはずだ。
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