とある企業の恋愛事情 -ある社長秘書とコンビニ店員の場合-
 綾芽と交際し初めて一週間が経った。普通のカップルなら、デートの一回や二回している頃だ。

 だが、俊介はいまだに綾芽と会えていなかった。電話はいつも短い時間しか喋らないし、メッセージのやりとりはするものの、綾芽が返事する時間は決まっている。

 これには流石の俊介も不審に思い始めた。

 綾芽は仕事で忙しいと言っているが、本当は他の理由があるのではないだろうか。

 よもや綾芽が浮気しているなどとは思わないが、もしかしたら借金のことで黙っていることがあるのかもしれない。借金取りに追われているのかもしれない。

 あれこれ考えたが、理由は分からなかった。

「んなもん、会いに行けばいいじゃねーか」

 そんな俊介に、本堂は一喝した。

 ど正論だが、俊介は綾芽に遠慮していた。本当に会いたいと思っていたら会いたいと言うはずだ。

 それを自分から会いにいくとねちこい男だと思われないだろうか。いや、本当にそうなのだが。

 しかし、このまま待っていてもモヤモヤするだけだ。俊介は真偽を確かめに綾芽に会いに行くことにした。




 住所は知らなかったが、綾芽は元々藤宮系列のコンビニでバイトしていたので、人事に問い合わせれば教えてもらえる。一度本堂が聞いていて知っていたから、それを教えてもらった。

 綾芽の住んでいるアパートは思っていたほど酷いものではなかった。

 二十代の女性が住むには心許なさそうだが、築三十年ほどだろうか。外壁や扉は古そうだが、オンボロというほどではない。

 駐車場もなかったので、俊介はアパートの前に車を停めて待つことにした。時刻は午後十時を過ぎている。もうすぐ綾芽が戻ってくる時間帯だ。

 アパート前で待つこと数十分、ようやくアパートの前を人影が通った。

 駐車場もないアパートの前に車が止まっていて不思議に思ったのだろう。俊介の車の前方を通った綾芽は、フロントガラスの方から俊介の姿を見て酷く驚いてた。

 俊介が扉を開けて出ると、綾芽が近付いて来た。

「俊介さん……! なんでここに……」

「少し顔が見たくなったんだ」

「ごめんなさい。随分と待ったんじゃありませんか?」

「気にしなくていい。俺が勝手に来たんだ」

「あの……もしあれだったら、上がって行きますか? なにもないところですけど……」

 どうやら、避けられているわけではないらしい。俊介は幾ばくか安心した。

「そうさせてもらうよ。綾芽さん、夕飯は食べた?」

「あ、はい」

 俊介は車の助手席に置いていた紙袋を綾芽に渡した。

「会社の近くの店で惣菜買って来たんだ。もしあれだったら明日にでも食べたらいい」

「えっ、そんなわざわざ……」

「俺の晩ご飯のついでだから気にしないでくれ」

「すみません。気を使わせてしまって」

 どうぞ、と言われて俊介はアパートの階段を登った。ギシ、と錆びた金属の音が立つ。

 改めてアパートを見た。アパートは十の扉がある。ということは、ここには約十人が住んでいるのだろう。

 綾芽は二階に上がると、右から二つ目の扉を開けた。鍵はもちろん、カードではない。

 玄関扉を開けると薄暗い一畳ほどの玄関があった。靴はきれいに仕舞われているのか、見当たらない。特に物のない玄関だった。あるのは傘ぐらいだろうか。

 綾芽は中に入ると玄関から奥に進んで順に電気を点けていく。蛍光灯の明かりがなんだか眩しく感じた。廊下はフローリングだ。だが、奥に見えた部屋は畳だった。

「狭い部屋ですけど、どうぞ。スリッパはないので、そのままでごめんなさい」

 中はよくある単身者用のマンションと同じ作りだ。だが、俊介も単身者用のマンションだが綾芽のアパートとはだいぶ違った。

 綾芽の部屋は六畳ほどの大きさだ。畳の床に窓は擦りガラス、天井の照明は元々備え付けのものなのか、なんだか古めかしいデザインだ。正直綾芽がこの部屋に住んでいるという気がしない。

 綾芽は適当に座ってください、と言って、途中の廊下の壁に埋め込まれた小さな冷蔵庫からお茶を取り出した。プラスチックの容器からマグカップに注いだそれを、俊介の前にある四角いテーブルに持ってくる。客用のグラスなんてなさそうだ。

「おもてなしもできなくてごめんなさい。狭い部屋で落ち着かないですよね」

「そんなことないよ。広過ぎても掃除が大変なだけだから」

 綾芽の部屋はそれほど物は多くない。プラスチック素材のタンスが一つあるが、テレビもないしベッドもない。布団は床に敷いて寝ているのだろう。

「仕事は……どうだ?」

「はい……相変わらず、忙しくて」

「突然会いに来て悪かった。ただ、少し心配だったんだ。俺のせいでコンビニも辞めたし、無理してたらと思って……」

「そんなんじゃないんです。その……」

 綾芽は視線を落として気不味そうに言葉を濁した。

「俺じゃ頼りにならないか?」

「違いますっ……あの、そういうわけじゃないんです……」

 綾芽は小さく溜息をつくと、実は────と切り出した。

「────就職活動をしているんです」

「就職活動?」

 思っても見ない答えが返って来て、思わず聞き返した。

「その……コンビニを辞めたのでいい機会だなと思って」

「それって前に言ってた花屋で?」

「はい。でも、なかなか都合のいいところがなくて。私は未経験ですし、掛け持ちなので働くところも限られていて……いくつか面接に行ったんですけど、全滅です」

 綾芽は自嘲気味に笑みを浮かべた。

「俊介さんには、受かったら言おうと思っていたんです。色々ご迷惑もかけたので、安心して欲しくて。ただ、そのせいであんまり会えなくて、嫌な思いをさせてしまってすみませんでした……」

 綾芽に謝罪されて、俊介は逆に申し訳なくなった。

 綾芽は自分なりに前に進もうとしていたのに、自分ときたら浮かれてデートすることばかり考えていた。これではどちらが年上だから分からない。

「いや、俺こそ何も考えずにすまなかった……」

「いいご報告が出来るように頑張ります。もし受かったら、その……俊介さんにお店に来てほしいんです」

「行くよ。けど、綾芽さんに花を買っても綾芽さんがそれを作るのか。なんだか複雑だな」

「私が花束とか作れるようになるのはもっと先の話だと思いますよ」

 綾芽はふふ、と可笑しそうに笑った。なんだかその様子が可愛くて、俊介は思わず彼女の黒髪を優しく撫でた。

 彼女は恥ずかしそうに俯いて、やがて恨めしそうに俊介を見つめた。子供扱いしたわけではない。ただ、本当に可愛いと思ったからそうしただけだ。

 俊介は誘われるように綾芽の唇にそっと触れた。

 驚いているだろうか、彼女は。あの時と違って、拒まれることはなかった。唇は俊介に合わせるようにぎこちなく動いて、飴を転がすように優しく触れた。

 体を離すと、綾芽は唇を横にひき結んで俊介を上目がちに見つめた。怒っているのか。恥ずかしがっているのか。喜んでいるのか。分からない顔だ。その顔を見ると、もっと感情を見たくて少し意地悪してやりたくなった。

「会社では面接官することもあるんだ。俺が面接指導しようか?」

「え? ええっと、いえ……」

 俊介はもう一度口付けた。今度はもっと深く。思考を鈍らせるような口付けに、綾芽の瞳はとろんと蕩けた。

「じゃあ、質問する。俺のどこが好きなんだ……?」

 戸惑いながら、綾芽は答えた。

「……真面目なところ、です」

「他は?」

「優しくて、いつも親切で、尊敬できます……私の喜ぶことばかりして、くれるところとか……」

 言ってる途中で恥ずかしくなったのか、綾芽はふいっと顔を背けてしまった。

「……合格だ」

 以前は本堂が聖に意地悪している理由が全く分からなかったが、今はよく分かる。こんな可愛い反応を見せられたら、意地悪したくなるのだ。

 だが、意地悪したつもりが素直に返されて、面食らったのは自分の方だった。
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