惡ガキノ蕾 二幕
~R1.8.11 海斗~
翌日。快晴。
思うに、海水浴を目的としていなければ瞬殺されかねない猛烈な日差しが午前中からありとあらゆる物を焼き尽くそうと躍起になって照りつける中、あたし達一行は海へと繰り出して行った。
海岸と民宿を隔てているのは国道一本だけで、民宿を出発したあたし達は一分と時を掛けず灼けた砂を踏む事となる。砂浜に立ち並ぶ海の家、その中の一軒を太一と瑠花のお母さんの妹、夏美さんが経営していて、海岸に降り立ったあたし達が最初に目指す場所はその海の家となっていた。
──程なく一行は七つある海の家の一番端、民宿と同じ名前の看板″風林屋″を発見。店の正面パラソルの下、飲み物の詰まったケ-ス越しに男の子が、太一と瑠花に向かって元気良く手を振っている。よく見ると、店の中には昨晩民宿に居た従業員の顔もちらほらあった。
「海斗-!久し振りだな-!」
手を振る男の子に大声で応える太一。小麦色って言うんだろうか、実際小麦なんて実物を見た事が無いのでハッキリした事は言えないけど、見事に日焼けしたその男の子の名前が海斗。夏美さんの一人息子で十五歳。素っぴんでアイドルグル-プに混じっても違和感ゼロのイケメンだ。薄くても太一と血が繋がっているとは俄《にわか》に信じられない。瑠花もあの通りの美形だから太一はきっとあれだ、シェフの気まぐれサラダならぬ神様の気まぐれブサイク的な物なのだろう。海斗は学年で言うとあたしの一つ下にあたる高校一年生。おじいちゃん達から聞いた話だと、お父さんを早くに亡くしている海斗は、お母さんを手伝ってよく働く孝行息子という事だった。この話が本当ならばますゝ海斗が太一の従兄弟であるという事実の信憑性については疑って掛からなければならないだろう。
海斗が男共と友好を深めている間、あたし達は瑠花に付いて夏美さんにお目通りを済ませる事にする。
『お世話になります』瑠花が一通り紹介し終わるのを待って、皆で頭を下げる。「そんな四角張んないで楽にしてちょうだい」
昨晩の瑠花の話に依ると、若い時分は芸者をしていたという夏美さんは思っていたよりも気安い人で、これから一週間この海の家を拠点とするあたし達にとって、この出会いは心を軽くする物だった。
「──それと、お昼はこっちで用意するから心配しないようにね。キャットフ-ドは無いんだけど、…え-と、はなみちゃんだっけ、大丈夫?」
「へ?…あ、はい。大丈夫です」ちっ。どうやら従業員の中に口の軽い奴が居やがった。″夏美さんは優しそうで気配りの出来る女の人″と書いてあった心のノ-トに、″但し、少し許《ばかり》遠慮の足りない大人″と書き足しておく。
──さてと、それじゃあそろゝ参りますかとなりまして、男達が次々と砂浜を駆けて行く。パラソルの下で上着を脱いで優と瑠花も後に続く。遠目に見ていると周りを行き交う男達が、皆判で押したように二人を見て同じように振り返る様子が良く分かる。現場仕事で日々瑠花の躰は贅肉の欠片も無いスレンダ-ボディ。対を成す優はEカップのボンキュッボン。加えて二人共ビキニときた日にゃあたまんねえだろうなって、…あたしはスケベオヤジか。
「双葉-!はなみ-!」二人の呼ぶ声に周囲の男共があたし達に向けて無遠慮な視線を投げて寄越す。瑠花と優を見た後で期待値が上がっているのが伝わって来て気後れしているあたしの横、双葉が悪戯に誘うような微笑みを向けて言う。──「行こう」パ-カーを足下に落とすと、不躾《ぶしつけ》な視線が待ち構える中を双葉歩を進めて行く。忽《たちま》ち『うおぉぉぉ-っ』という声が双葉を中心に津波のように拡がると、一拍おいて完全な静寂が訪れた。久し振りに目にした服を脱いだ姉の後ろ姿に、周りの景色が色を失くしていく。左足から右肩に掛けて翔《かけ》る鳳凰。其れは双葉の背中に在るんじゃなく、其処に、″生きて″、いた。双葉と鳳凰は一人と一羽の別個の生き物として存在していた。二つの個体が一つの躰に共生する矛盾を抱えて、浮き世離れした生き物が目の前を歩いて行く。離されたくなくて、その背中に向けてあたしも足を踏み出した。
──それからのあたしは、もう周りの様子なんて頭から抜け落ちて、この夏を仲間と共に楽しむ事だけに夢中だった。双葉に手を引かれて膝小僧が海に潜る。優と瑠花に向けて足を振り上げると、水飛沫の一粒ゝが全力で陽射しを跳ね返しながら、二人の頭上に降り注いでゆく。息が上がって引き波に踏ん張りが利かなくなっても、あたし達は海と遊んだ。まだゝ遊び足りないと足元にじゃれつく波達から足を引き剥がし、殆ど倒れ込むように砂地にお尻を付ける。優から瑠花、双葉、あたしの順で美女が四人、砂浜に並んで腰を下ろした。美女が四人…ね。
「気ん持ちいい-!」
両手を大きく広げて仰向けに倒れる双葉。優と瑠花が同じ形で並ぶ。最後はあたし。「気ん持ちいい-!」
そのまま瞼を閉じて横になっていると、波の音や日焼け止めの匂い、発火しそうな強い陽射しがあたし達に入り込んで、躰の内側を夏色に染め上げていく。気が付くとあたし達の中から東京という街の匂いがきれいさっぱり消えてしまっていた。
──そろゝもう一戦と砂浜から躰を起こし掛けたその時、左側、二時の方向に不穏な気配を感じて首を回すあたし──
「ブゴフッ!」…生首!?これが全然知らない顔であったなら、本当に生首だと思って気絶するか鼓動が止まっていたかも知れない。辛うじて気を失う寸前で踏み留まれたのは、その生首がつい一時間前までは身近にあった物だからに他ならない。「…太一…。あんた何やって──」
「痛てっ!痛っ…痛い!はなみ助けっ…」
砂浜に首まで埋まった太一の頭の上と顔の周りには、気持ちが悪くなる位の蟹、蟹、蟹そして蟹。その数三十匹以上。良く見りゃご丁寧に顔の周りをぐるりと囲んで高さ十五センチ程の砂の壁が造られていて、蟹達が逃げ出さないよう万全の配慮が為されている。『ウキャキャキャキャキャキャ』とそこへ悪魔の如き笑い声を響かせて一樹と力也がやって来る。何処で捕まえて来たのか、二人の両手には又もや蟹。海から上がってきただんごは此《これ》も何処で用意したのかジョウロを片手に「ウキャキャキャキャキャキャ」と、すっかり悪魔に魂を売り渡した笑顔で、太一の頭に海水のシャワ-を浴びせる。直射日光の熱に依って動きを止めていた蟹達が、ジョウロから注がれるシャワ-に打たれて元気を取り戻したのか、活発に動き出した。
「痛って!いたたたた…。おい!だんご!お前覚えとけよ!」
「ひっ…」
「おいおい、ダメだぞ太一。じゃん拳で負けたってのにそういう事言っちゃ」
「だな。勝負は勝負だしな」
太一の恫喝に一度は顔色を変えただんごだったが、耳元で囁かれる悪魔達の声に、この先訪れるであろう計れぬ不幸については一旦考えるのを止めたようだった。
「そうっすよ太一君。俺も悲しいけど勝負は勝負っす。ウキャキャキャキャキャキャ」
「ヴェホッ──バカ!やめろ!掛け過ぎだっつうんだよ…ゲホッゴホッブッ…」
仲間だと誤解されるのを避ける為、あたし達はその場所を速やかに離れる事にした。入れ違いにジュ-スの入った袋を手に海斗が砂浜を駆けて来る。
「太一兄ちゃん…」
従兄弟の変わり果てた姿にショックのあまり言葉を失くしているのでは?と心配になって、暫し立ち止まって事の成り行きを見守るあたし。
「一樹君、力也君、だんご君。向こうにならもっと大きな蟹がいるよ!」
『マジか!』
黒い羽と尻尾を生やして海斗を先頭にした四匹の悪魔達が、薄気味の悪い笑い声を振り撒いてテトラポットの向こうに消えて行った。その背中を見送って、今度は恨めしそうな眼差しをあたしに向ける太一。眼が合ったあたしは、無言で頷くと砂の上の生首に背を向けた。
「はなみ-っ!」
追い縋る太一の叫びは砂浜に溢れかえる種々交々の噪音の波に呑まれて消えたのだった。
んな感じで進行した海水浴初日。テンション高めのあたし達に嫌な顔一つせずに付き合ってくれていた海も砂浜も、人一倍燥《はしゃ》いでいた太陽が疲れを見せ始めると、じゃあ私達もそろゝと言った感じで、露骨にお開きム-ドを濃くしだして人々を遠ざける。
──やがてとっぷりと日が暮れると、あたし達の姿は風林屋に在った。
皆で店の片付けを分担する。聞けば、他に二人いる従業員は営業が終わると民宿の方に行ってしまうので、普段片付けは夏美さんと海斗の二人だけなんだそうだ。
ほんの一、二時間までの光景が幻に思える位に姿を変えた浜辺の景色。他の海の家は、その殆どが店仕舞いを終えていて、今は夏美さんの店から一番離れた場所に在る一軒だけが、軒先に掛けられた葦簾《よしず》の間から頼り無い明かりを零《こぼ》しているだけだった。
「あそこの店も随分遅くまでやってるんですね」隣に立った夏美さんに何の気なしに声を掛ける。
「あの店はこれから溜まり場になる時間だからね」
「溜まり場?」聞き返したあたしの声は、それが独り言なのか質問の意味を持った物なのか曖昧だったんだと思う。夏美さんは答えを返さず、奥の調理場に消えて行った。あたしは宙に浮いたままの「溜まり場?」をもう一度打つける相手を店内に探すと、入口で貸し浮き輪を運び入れているTシャツ着た真っ白な背中が目に留まった。「海斗──」
僅か一日で大分親しくなったと勘違いしている能天気なあたしは、一つ上というこの年代には絶対的な上下関係の優位性も手伝って、気安くその背中を叩いた。「ねえ。あっちの海の家が溜まり場ってどういう事?」
──と、思いがけなく店内を飛び交う雑多な音の隙間を衝いたあたしの声は、自分でも驚く程の拡がりを見せた。
「あ?」「何?」「えっ?」「ん?」等々…。あたしの声に反応して、店内に散っていたみんなが鵜匠《うしょう》に引き寄せられる鵜の如く、あたしと海斗に手繰り寄せられて集まって来る。この場合、皆の首に付いた紐を引いたのはどうやらあたしと認識されているらしく、どの視線も一様にあたしに向けられていた。
「へ?あ…いや…、一番端の海の家も随分遅くまで人が残ってるから夏美さんに聞いてみたら、溜まり場だからって言われてさあ…」
あたしの言葉を受けて、初めて他の店の存在に考えを及ばせただんごと力也が店の外に出て行く。残ったあたし達は、答えを求めて今度はその視線を海斗に振った。
「あ-。…っと、…地元の暴走族だよ。店の名前は″大野屋″って言うんどけど、あの店のおじさんとおばさんの息子さん──勇司君がその暴走族のリ-ダ-だから…」
「暴走族…」と洩らした太一の一言で、皆の頭の中に同じ光景が映し出される。──昨日のガソリンスタンド。
「海斗の知り合いなのか?」と訊ねる太一に、「昔はよく遊んで貰ったけど、今は全然…」と、海斗の答えは歯切れが悪い。でも、それよりもその時のあたしは、海斗の顔に差した翳《かげ》りが蛍光灯の加減とは無関係に、まるで内面に病巣を抱えているような暗い物だった事に気を取られていた。思いの外《ほか》その表情が気になって、掛ける言葉を選びあぐねている処にだんごと力也が息急ききって駆け戻って来たのだった。
「おい!みんな!驚け、あの海の家──」力也の言葉の途中でだんごが割り込む──「昨日の暴走族の奴等がいるんすよ!」
十秒前ならみんなの心を幾らか波立たせる効果もあったろうけど、海斗の二番煎じとなったそのニュ-スは、今となってはあたし達の耳に何の引っ掛かりも与える事無く擦り抜けていく。
「…あれ?」「どうした?」
あたし達の反応に違和感を感じている憐れなピエロ二人を残して、全員が黙々と片付けの続きに戻って行った。時折聞こえる国道を走る車の音に紛れて、暴走族達の賑やかな話し声が潮風に乗って運ばれて来る。
その夜は波音も遠慮したのか、あたし達の耳から遠ざかっていた。
翌日。快晴。
思うに、海水浴を目的としていなければ瞬殺されかねない猛烈な日差しが午前中からありとあらゆる物を焼き尽くそうと躍起になって照りつける中、あたし達一行は海へと繰り出して行った。
海岸と民宿を隔てているのは国道一本だけで、民宿を出発したあたし達は一分と時を掛けず灼けた砂を踏む事となる。砂浜に立ち並ぶ海の家、その中の一軒を太一と瑠花のお母さんの妹、夏美さんが経営していて、海岸に降り立ったあたし達が最初に目指す場所はその海の家となっていた。
──程なく一行は七つある海の家の一番端、民宿と同じ名前の看板″風林屋″を発見。店の正面パラソルの下、飲み物の詰まったケ-ス越しに男の子が、太一と瑠花に向かって元気良く手を振っている。よく見ると、店の中には昨晩民宿に居た従業員の顔もちらほらあった。
「海斗-!久し振りだな-!」
手を振る男の子に大声で応える太一。小麦色って言うんだろうか、実際小麦なんて実物を見た事が無いのでハッキリした事は言えないけど、見事に日焼けしたその男の子の名前が海斗。夏美さんの一人息子で十五歳。素っぴんでアイドルグル-プに混じっても違和感ゼロのイケメンだ。薄くても太一と血が繋がっているとは俄《にわか》に信じられない。瑠花もあの通りの美形だから太一はきっとあれだ、シェフの気まぐれサラダならぬ神様の気まぐれブサイク的な物なのだろう。海斗は学年で言うとあたしの一つ下にあたる高校一年生。おじいちゃん達から聞いた話だと、お父さんを早くに亡くしている海斗は、お母さんを手伝ってよく働く孝行息子という事だった。この話が本当ならばますゝ海斗が太一の従兄弟であるという事実の信憑性については疑って掛からなければならないだろう。
海斗が男共と友好を深めている間、あたし達は瑠花に付いて夏美さんにお目通りを済ませる事にする。
『お世話になります』瑠花が一通り紹介し終わるのを待って、皆で頭を下げる。「そんな四角張んないで楽にしてちょうだい」
昨晩の瑠花の話に依ると、若い時分は芸者をしていたという夏美さんは思っていたよりも気安い人で、これから一週間この海の家を拠点とするあたし達にとって、この出会いは心を軽くする物だった。
「──それと、お昼はこっちで用意するから心配しないようにね。キャットフ-ドは無いんだけど、…え-と、はなみちゃんだっけ、大丈夫?」
「へ?…あ、はい。大丈夫です」ちっ。どうやら従業員の中に口の軽い奴が居やがった。″夏美さんは優しそうで気配りの出来る女の人″と書いてあった心のノ-トに、″但し、少し許《ばかり》遠慮の足りない大人″と書き足しておく。
──さてと、それじゃあそろゝ参りますかとなりまして、男達が次々と砂浜を駆けて行く。パラソルの下で上着を脱いで優と瑠花も後に続く。遠目に見ていると周りを行き交う男達が、皆判で押したように二人を見て同じように振り返る様子が良く分かる。現場仕事で日々瑠花の躰は贅肉の欠片も無いスレンダ-ボディ。対を成す優はEカップのボンキュッボン。加えて二人共ビキニときた日にゃあたまんねえだろうなって、…あたしはスケベオヤジか。
「双葉-!はなみ-!」二人の呼ぶ声に周囲の男共があたし達に向けて無遠慮な視線を投げて寄越す。瑠花と優を見た後で期待値が上がっているのが伝わって来て気後れしているあたしの横、双葉が悪戯に誘うような微笑みを向けて言う。──「行こう」パ-カーを足下に落とすと、不躾《ぶしつけ》な視線が待ち構える中を双葉歩を進めて行く。忽《たちま》ち『うおぉぉぉ-っ』という声が双葉を中心に津波のように拡がると、一拍おいて完全な静寂が訪れた。久し振りに目にした服を脱いだ姉の後ろ姿に、周りの景色が色を失くしていく。左足から右肩に掛けて翔《かけ》る鳳凰。其れは双葉の背中に在るんじゃなく、其処に、″生きて″、いた。双葉と鳳凰は一人と一羽の別個の生き物として存在していた。二つの個体が一つの躰に共生する矛盾を抱えて、浮き世離れした生き物が目の前を歩いて行く。離されたくなくて、その背中に向けてあたしも足を踏み出した。
──それからのあたしは、もう周りの様子なんて頭から抜け落ちて、この夏を仲間と共に楽しむ事だけに夢中だった。双葉に手を引かれて膝小僧が海に潜る。優と瑠花に向けて足を振り上げると、水飛沫の一粒ゝが全力で陽射しを跳ね返しながら、二人の頭上に降り注いでゆく。息が上がって引き波に踏ん張りが利かなくなっても、あたし達は海と遊んだ。まだゝ遊び足りないと足元にじゃれつく波達から足を引き剥がし、殆ど倒れ込むように砂地にお尻を付ける。優から瑠花、双葉、あたしの順で美女が四人、砂浜に並んで腰を下ろした。美女が四人…ね。
「気ん持ちいい-!」
両手を大きく広げて仰向けに倒れる双葉。優と瑠花が同じ形で並ぶ。最後はあたし。「気ん持ちいい-!」
そのまま瞼を閉じて横になっていると、波の音や日焼け止めの匂い、発火しそうな強い陽射しがあたし達に入り込んで、躰の内側を夏色に染め上げていく。気が付くとあたし達の中から東京という街の匂いがきれいさっぱり消えてしまっていた。
──そろゝもう一戦と砂浜から躰を起こし掛けたその時、左側、二時の方向に不穏な気配を感じて首を回すあたし──
「ブゴフッ!」…生首!?これが全然知らない顔であったなら、本当に生首だと思って気絶するか鼓動が止まっていたかも知れない。辛うじて気を失う寸前で踏み留まれたのは、その生首がつい一時間前までは身近にあった物だからに他ならない。「…太一…。あんた何やって──」
「痛てっ!痛っ…痛い!はなみ助けっ…」
砂浜に首まで埋まった太一の頭の上と顔の周りには、気持ちが悪くなる位の蟹、蟹、蟹そして蟹。その数三十匹以上。良く見りゃご丁寧に顔の周りをぐるりと囲んで高さ十五センチ程の砂の壁が造られていて、蟹達が逃げ出さないよう万全の配慮が為されている。『ウキャキャキャキャキャキャ』とそこへ悪魔の如き笑い声を響かせて一樹と力也がやって来る。何処で捕まえて来たのか、二人の両手には又もや蟹。海から上がってきただんごは此《これ》も何処で用意したのかジョウロを片手に「ウキャキャキャキャキャキャ」と、すっかり悪魔に魂を売り渡した笑顔で、太一の頭に海水のシャワ-を浴びせる。直射日光の熱に依って動きを止めていた蟹達が、ジョウロから注がれるシャワ-に打たれて元気を取り戻したのか、活発に動き出した。
「痛って!いたたたた…。おい!だんご!お前覚えとけよ!」
「ひっ…」
「おいおい、ダメだぞ太一。じゃん拳で負けたってのにそういう事言っちゃ」
「だな。勝負は勝負だしな」
太一の恫喝に一度は顔色を変えただんごだったが、耳元で囁かれる悪魔達の声に、この先訪れるであろう計れぬ不幸については一旦考えるのを止めたようだった。
「そうっすよ太一君。俺も悲しいけど勝負は勝負っす。ウキャキャキャキャキャキャ」
「ヴェホッ──バカ!やめろ!掛け過ぎだっつうんだよ…ゲホッゴホッブッ…」
仲間だと誤解されるのを避ける為、あたし達はその場所を速やかに離れる事にした。入れ違いにジュ-スの入った袋を手に海斗が砂浜を駆けて来る。
「太一兄ちゃん…」
従兄弟の変わり果てた姿にショックのあまり言葉を失くしているのでは?と心配になって、暫し立ち止まって事の成り行きを見守るあたし。
「一樹君、力也君、だんご君。向こうにならもっと大きな蟹がいるよ!」
『マジか!』
黒い羽と尻尾を生やして海斗を先頭にした四匹の悪魔達が、薄気味の悪い笑い声を振り撒いてテトラポットの向こうに消えて行った。その背中を見送って、今度は恨めしそうな眼差しをあたしに向ける太一。眼が合ったあたしは、無言で頷くと砂の上の生首に背を向けた。
「はなみ-っ!」
追い縋る太一の叫びは砂浜に溢れかえる種々交々の噪音の波に呑まれて消えたのだった。
んな感じで進行した海水浴初日。テンション高めのあたし達に嫌な顔一つせずに付き合ってくれていた海も砂浜も、人一倍燥《はしゃ》いでいた太陽が疲れを見せ始めると、じゃあ私達もそろゝと言った感じで、露骨にお開きム-ドを濃くしだして人々を遠ざける。
──やがてとっぷりと日が暮れると、あたし達の姿は風林屋に在った。
皆で店の片付けを分担する。聞けば、他に二人いる従業員は営業が終わると民宿の方に行ってしまうので、普段片付けは夏美さんと海斗の二人だけなんだそうだ。
ほんの一、二時間までの光景が幻に思える位に姿を変えた浜辺の景色。他の海の家は、その殆どが店仕舞いを終えていて、今は夏美さんの店から一番離れた場所に在る一軒だけが、軒先に掛けられた葦簾《よしず》の間から頼り無い明かりを零《こぼ》しているだけだった。
「あそこの店も随分遅くまでやってるんですね」隣に立った夏美さんに何の気なしに声を掛ける。
「あの店はこれから溜まり場になる時間だからね」
「溜まり場?」聞き返したあたしの声は、それが独り言なのか質問の意味を持った物なのか曖昧だったんだと思う。夏美さんは答えを返さず、奥の調理場に消えて行った。あたしは宙に浮いたままの「溜まり場?」をもう一度打つける相手を店内に探すと、入口で貸し浮き輪を運び入れているTシャツ着た真っ白な背中が目に留まった。「海斗──」
僅か一日で大分親しくなったと勘違いしている能天気なあたしは、一つ上というこの年代には絶対的な上下関係の優位性も手伝って、気安くその背中を叩いた。「ねえ。あっちの海の家が溜まり場ってどういう事?」
──と、思いがけなく店内を飛び交う雑多な音の隙間を衝いたあたしの声は、自分でも驚く程の拡がりを見せた。
「あ?」「何?」「えっ?」「ん?」等々…。あたしの声に反応して、店内に散っていたみんなが鵜匠《うしょう》に引き寄せられる鵜の如く、あたしと海斗に手繰り寄せられて集まって来る。この場合、皆の首に付いた紐を引いたのはどうやらあたしと認識されているらしく、どの視線も一様にあたしに向けられていた。
「へ?あ…いや…、一番端の海の家も随分遅くまで人が残ってるから夏美さんに聞いてみたら、溜まり場だからって言われてさあ…」
あたしの言葉を受けて、初めて他の店の存在に考えを及ばせただんごと力也が店の外に出て行く。残ったあたし達は、答えを求めて今度はその視線を海斗に振った。
「あ-。…っと、…地元の暴走族だよ。店の名前は″大野屋″って言うんどけど、あの店のおじさんとおばさんの息子さん──勇司君がその暴走族のリ-ダ-だから…」
「暴走族…」と洩らした太一の一言で、皆の頭の中に同じ光景が映し出される。──昨日のガソリンスタンド。
「海斗の知り合いなのか?」と訊ねる太一に、「昔はよく遊んで貰ったけど、今は全然…」と、海斗の答えは歯切れが悪い。でも、それよりもその時のあたしは、海斗の顔に差した翳《かげ》りが蛍光灯の加減とは無関係に、まるで内面に病巣を抱えているような暗い物だった事に気を取られていた。思いの外《ほか》その表情が気になって、掛ける言葉を選びあぐねている処にだんごと力也が息急ききって駆け戻って来たのだった。
「おい!みんな!驚け、あの海の家──」力也の言葉の途中でだんごが割り込む──「昨日の暴走族の奴等がいるんすよ!」
十秒前ならみんなの心を幾らか波立たせる効果もあったろうけど、海斗の二番煎じとなったそのニュ-スは、今となってはあたし達の耳に何の引っ掛かりも与える事無く擦り抜けていく。
「…あれ?」「どうした?」
あたし達の反応に違和感を感じている憐れなピエロ二人を残して、全員が黙々と片付けの続きに戻って行った。時折聞こえる国道を走る車の音に紛れて、暴走族達の賑やかな話し声が潮風に乗って運ばれて来る。
その夜は波音も遠慮したのか、あたし達の耳から遠ざかっていた。