無口な侯爵はエメラルドの瞳に恋をする
 ネリウスは、ミラルカの代わりにエメラルドの部屋へ食事を運んだ。

 もう、二日も食べていない。空腹のはずだ。

 物音ひとつしない部屋の前で、ネリウスはまだ躊躇っていた。中に入ったら、本当にどうなるか分からない。

 それでも────エルともう一度会いたかった。

 意を決してドアを叩いた。瞬間、部屋の中からガタガタと音がした。ネリウスはドアノブに手をかけた。

 ゆっくり開いた扉の先には、壁際に張り付いて精一杯ネリウスから距離を取ろうと恐怖に濡れた瞳のエルがいた。

 そんな彼女に、掛けようと思っていた言葉は霧散した。途端どう言えばいいか分からなくなった。

 ミラルカが同じ態度をとられたのだとしたら、あんなに泣き腫らすのも無理はない。

 ネリウスは固唾を飲んで一歩足を進めた。

 エルは出ない声でなにか叫んでいた。怯えた瞳は逃げ場を探し、荒い呼吸は彼女がどれだけ今まで辛い目に遭ってきたか物語っている。それを見ると尚更ショックだった。

 ────俺がお前を傷つけるように見えるのか……? 俺が何に見ているんだ?

「違う、エル……俺は……」

 ネリウスは必死で弁解しようとエルに語りかけるが、エルは目を瞑り耳に手を当てて聞こうともしない。いや、聞きたくないのだろう。

 その深い翠の瞳いっぱいに涙をためて、全身でネリウスを拒絶していた。

 もう声も出ないのに、エルは何か喋っていた。その言葉は聞こえないはずなのに、ネリウスには届いていた。

 ────来ないで。

 ────どうして。

 ────なんで。

 分かっていたはずだ。あの痛々しい傷跡を見たのに。エルがどんな冷遇を受けて、必死に耐えてきたか。

 彼女が叫ぼうとしたその言葉の後に「もう 私を傷付けないで」、と。そう言おうとしていたことが。

 嗚咽を漏らしながら必死に、必死に助けを願っていた。

 けれど違うのだ。もう一度でいい。その瞳に自身を映して欲しい。

 エルは見てくれていたはずだ。本当の自分を────。

 逃げ場を探したエルの右手が、窓の格子に伸びた。

「やめっ────」

 開いた窓に背を向けてゆっくりと落ちていくエルを、手を伸ばして、止めることもできなかった。

 開け放たれた窓からは風が吹き込んでカーテンを揺らしていた。

 ネリウスはただ、そこに立ち尽くした。エルが消えた窓を、ただ眺めながら。

  まるでスローモーションのように、エルが二階の窓から落ちていった。

 しばらくそこで呆然としていたネリウスは、外から聞こえてきたファビオの叫び声で我に返った。

 震える足で窓から下を覗くと、倒れたエルと、青褪めたファビオがいた。

 ネリウスは慌てて庭に走った。ファビオは尻餅をついて目の前の光景に何も出来ないでいた。突然エルが窓から落ちてきたのだから当然だ。

 すぐ医者を呼ぶように指示し、エルに近づく。

 落ちた先は植え込みだったようだ。目立った外傷はなかった。確かめると、心臓はまだ動いていた。どうやら気を失っているだけのようだ。

 気絶したエルの顔は絶望も、悲しみも、怯えもない。ネリウスは思わずエルを抱きしめた。

 エルをそこまで追い込んでしまった自分が憎かった。

 どうして、もっと早く本音を言わなかったのだろう。お前が大切なんだと。

 朗らかな笑顔も、その綺麗な瞳も、華奢な身体も。気遣ってくれる優しい想いも────こんな自分すら受け入れてくれたのに。

 つまらない意地など張らずに、ちゃんと伝えていたら。
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