無口な侯爵はエメラルドの瞳に恋をする
 結局朝までエルの部屋で過ごした。椅子の上で寝たせいか体は軋んで首が痛い。

 エルはまだ起きていなかった。残念だったが、どこか安心してもいた。

 また怯えられたらどんな態度をとればいいか分からない。穏やかでいてくれるのなら眠り姫のままがいいのだろうか。

 真っ直ぐな前髪をかき上げると、エルが身動いで、その瞳を開けた。

 ネリウスは驚いて手を引っ込めた。無意識でした行動をすぐに後悔した。

 まだ眠そうな瞼がゆっくりと開くと、エルはネリウスに気がついた。

 エルは何か喋ろうとしていた。たが、声が出ないことに気がついたのか喉を押さえて訝しげな顔をしている。

 エルははっきりとネリウスの目を見つめていた。何か言おうとしていた。

 しかしその事よりも、ネリウスが驚いていたのはエルの態度だった。飛び降りる前と明らかに違う。

「待ってろ。今医者を呼んでやる」

 なんとかそれだけ言って、ネリウスはすぐに別の部屋に待機させていた医者とミラルカを呼んだ。

 医者が近づいてもエルは嫌がることもなく診察を受けた。医者もミラルカも、その様子に驚いていた。エルはショックを受けて以前のエルに逆戻りしていたはずなのに────。奇妙な光景だった。

 医者はいくつかエルに質問した。紙とペンを渡して何か書かせた。

「お嬢様は……どうやら記憶がないようです」

 少しして、医者は切り出した。

「記憶が……ない?」

「はい……どうしてここにいるのかも、自分が誰なのかも分かっていないようです」

「まさか、飛び降りてどこかぶつけたショックで……っ」

「いえ、頭は打っていないのでその線は薄いと思われます。もし可能性があるとしたら、一時的なストレスにショックを受けて記憶が飛んだのかもしれません。虐待を受けた人がまるで別人のような性格になったり、虐待されていた記憶がごっそりなくなることは珍しくないんですよ。悲しみに耐えきれずに、自分から記憶をなくしてしまうのでしょうね……」

「そんな…………では、エル様はもう、私たちのことは覚えていないというのですか」

「……恐らく」

 この違和感の正体がわかった。それと同時に激しい喪失感を覚えた。

 あんなに怯えていた瞳が臆することもなく自分の目を見つめた。近くにいても何も感じない。

 エルにはここで過ごした記憶を無くしたのだ。およそ三年。自分たちと過ごした大切な時間を全て。

「そんな! エル様、私のことを覚えていませんか!? メイド長のミラルカです! いつも、お世話をしていたでしょう」

 ミラルカは興奮してエルに詰め寄るが、エルは三人の会話をキョトンとした様子で聞いていた。まるで別人のように。

 ────きっと、俺のことも覚えていない。そして、この三年より前の記憶も。

「……わかった。もう下がっていい」

「旦那様! これで……このままでいいんですか!? だって……」

「……いいわけがない」

 ミラルカは何か言いかけたが、ネリウスの拳が悔しそうに握りしめられたのを見て黙った。

 記憶を忘れている────医者からそう言われて、どこか喜ぶ自分と悲しむ自分がいた。

 悲しい記憶から解放されたのなら、それでいいのではないか。忌々しい虐待の記憶から解放されれば、エルはこれから幸福になれるかもしれない。怯えることもなく、普通に人と接することができるようになるだろう。

 だけどそれに伴って自分のことまで忘れられてしまった。

 大した記憶ではないかもしれない。会話もまともにできなくて、エルにはつまらない思いをさせただろう。

 だがそれでも、自分にとってはかけがえのない思い出だった。



 ネリウスは従業員たちを集めて今後のことを相談した。

 記憶が蘇るとまた怯えるかもしれないため、できるだけ当たり障りなく接し、客人として扱うよう提案した。

 だが、ファビオとミラルカは反対した。

 この中で一番エルと親しかった二人だ。二人にとって、エルと過ごした時間は捨てられるものではない。

 二人とも苦しんでほしくないと思いながらも、思い出してほしいと願っていた。

「旦那様……もう一度エル様のお世話を私に任せてもらえませんか。今度は、今度こそは……失敗したくないんです……」

 ミラルカは必死に頼み込んだ。エルが記憶を失うほど傷付いた原因は自分にあると思っているのだろう。

 けれどネリウスは悩んだ。また同じ人間をそばに置けばエルが過去のことを思い出すかもしれない。そうすればまたパニックに陥る可能性がある。

「だが……」

「お願いします」

 真剣に頼むミラルカに折れて、ネリウスはようやく頷いた。使用人の中でエルを最も理解しているのはミラルカだ。いきなり他の人間に任せるよりは、ミラルカの方が対処しやすい。そう思って自分を納得させた。

「なにかあったら……すぐに報告しろ」

「はい……」

「ファビオ、お前も出来るだけエルに……」

「はい、僕も自分に出来ることをします。思い出してもらえるように……」

 ネリウスは、自分はどうするのか未だに考えあぐねていた。

 普通に接することは出来るようになった。しかし、今まで通りにやればまたエルを傷付けてしまうような気がした。どうしたらいいのだろう。

 そんなことを考えながら、エルの部屋まで来て扉の前で立ち尽くした。

 ノックをして入ると、エルはベッドの上からこちらを見ていた。

「あ……」

 この態度にはいまだ慣れない。

 しどろもどろしているネリウスに、エルは頭の上に疑問符を浮かべていた。

「体調は、大丈夫か……?」

 エルは頷いた。どうやら本当に無傷だったようだ。

 ネリウスはベッド脇の椅子に腰掛けた。こんなに近付いても、エルは嫌がらない。目の前の女性はエルであって、エルではないのだ。

「お前は、自分の名前も覚えていないのか」

 エルはおずおずと頷いた。

 ネリウスはもう一度、その名前を呼んだ。

「……お前の名前は、エメラルドだ」

 初めて見る美しい瞳の色に、そう呼んだのだ。
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