無口な侯爵はエメラルドの瞳に恋をする
 ネリウスはエルに記憶をなくしていること、それ以前はここに住んでいたことを教えた。

 どちらも間違いではない。ただ、余計な情報は避けたかった。

 エルは記憶をなくしていたが、ここに来て学んだ読み書きは覚えていた。ネリウスが渡した紙にすらすらと文字を書いた。何もかもを忘れてしまっているわけではないらしい。

 そして少しでも気が紛れればと思い、用意させていた本を渡した。

「お前は勉強家で、本をよく読んでたんだ。興味があるならまた図書室に案内させる」

 本が好きだったことは覚えているのか、ネリウスが渡した本を嬉しそうに受け取った。

 少しづつ、少しづつ近付けばいい。焦る必要も急ぐ必要もない。

 本当に必要なのは、エルとの信頼だ。もしまた思い出しても自分達を信じてもらえるように、今度はきちんと伝えなければならない。素直な気持ちを────。

 対人恐怖症がなくなった分、今度はファビオともすぐに打ち解けることが出来た。ファビオはさっそく自慢の庭を案内した。そしてまた、その庭はネリウスからのプレゼントであるということも説明した。

 記憶のないエルは「こんなものをもらってもいいのか」、と戸惑っていた。そして笑って頷くファビオとネリウスに、遠慮がちに深く頭を下げた。

 ミラルカももう一度自分が世話係であることを伝え、毎日部屋へ行って話をした。ほんの些細な日常の話から、今日あったこと、ネリウスの愚痴話まで。

 エルは笑ってそれを聞いていた。楽しそうにしていた。少なくともネリウスにはそう見えた。

 このまま、穏やかに過ごしてくれたら────そう願った。

 もうあのダンスホールは使うまい。きっと、そこまでいくとまた記憶の蓋を開けてしまう。

 だからエルとは二度と踊らない。もう、あの夜のことも思い出さなくていい。

 エルと距離が近づいたと思っていた、大切な記憶。

 それも今は、エルにとって凶器となりかねないのなら自分も忘れよう。あの手の感触も、見つめた瞳のことも。



 エルが記憶を失ってから、数ヶ月の月日が流れた。

 あれからエルは昔を思い出すこともなく、庭から花を眺めたり、本を読んだりしながらゆっくり過ごした。

 時折ネリウスがその横に座って、難しい本を教えたりもした。昔はできなかった、他愛ない会話も努めてするようにした。食事もなるべく一緒に摂るようにして、たまに手紙を送ったりもした。

 エルにとってベッカー邸の人間は家族のような存在になった。

 これでいい────。ネリウスは満足していた。

 エルは笑うようになった。もう傷付くことはない。温かい記憶の中にいればエルの心を守れる。

 だから、これ以上の感情を持つべきではない。
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