Grand Duo * グラン・デュオ ―シューベルトは初恋花嫁を諦めない―

   * * *


 リビングのソファで遺言書を読んでぽろぽろと涙を零しつづけるネメを抱きしめ、背中をやさしくさすりながら髪や首筋にキスをしていくうちに、俺の心は凪いでいく。

「……ネメ。もしかして泣くほどイヤなことが書いてあったのか?」
「違うわよ莫迦……こ、これは、嬉し涙なんだからっ」
「知ってるよ」
「ぅうっ……わたしは、彼に、何もして、ないの……に」
「何もしてないわけないだろ。須磨寺は自分の死を看取ってくれたお前に感謝しているはずだ。ショパンの別れの曲を弾いたのはお前だ。それ以前にも、きっと彼はネメのピアノに救われているはずだ」
「ど、どぉしてアキフミがぞんなごといえるのよ……っ」

 泣きすぎて濁音が入り混じった彼女の言葉が、こんなときなのに可愛く思えて俺はついくすくす笑ってしまう。突然笑い出した俺を見て、ネメの涙がぴたりと止まる。

「――ネメ。須磨寺の人生の大半はピアノとこの軽井沢の地でできているんだ。愛する土地で大好きな曲を奏でてくれる自分だけのピアニストに傍にいてもらうことが叶った彼は、幸せ者なんだよ」
「……そうなの?」
「ああ。羨ましくて俺が嫉妬するくらいに」

 ピアノを愛し、軽井沢を愛した男、須磨寺喜一。
< 220 / 259 >

この作品をシェア

pagetop