Grand Duo * グラン・デュオ ―シューベルトは初恋花嫁を諦めない―

シューベルトと初夏の愛人《6》




 紫葉リゾート長野支店の店頭にはゴールデンウィークを前に軽井沢や上高地のハイキングなどをうたった青々とした緑色の写真が目立つツアーパンフレットが飾られている。大手旅行会社と異なり、店舗では自分たちが建設、開発した紫葉不動産グループ内の高級ホテルや宿泊施設を紹介しているためどこよりもお得な価格でプレミアムな旅行を楽しめますとうたわれていた。
 わたしはきょろきょろしながらアキフミの後ろにつづく。彼はひとりで店長室に入っていく。添田とふたりでその並びの別室に待機するよう指示されて、落ち着かない気持ちでソファに座る。

「添田さん」
「なんでしょう、奥様」
「わたしはもう、主の奥様じゃないわ」
「紫葉さまは、貴女さまのことを妻だと、そうおっしゃっておりますが」
「……誤解よ。わたしは土地とピアノを守るために彼の愛人に成り下がっただけ。夫のときと変わらないわ」
「左様ですか」

 気まずい沈黙のなか、平然と差し出された緑茶を啜る添田を前に、何も言えなくなる。店長がわたしたちに煎れてくれた緑茶は、熱々で、猫舌のわたしは口をつけることすらできない。それを添田は黙々と飲んでいる。
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