信じてもらえないかもしれませんが… あなたを愛しています

樹が見たもの


 …同日の午後に遡る。

 新千歳に着いた樹は札幌支店のメンバーの案内で
市内のクライアントを数件訪ねた。新しいシステムの導入の契約の為である。
順調にこなし、宿泊予定のホテルにチェックインした。
基本的に単独行動気味な樹は、大勢での接待を好まない。
社員達も心得ているから、メンバーとは夕方解散となった。
夕食は独りでのんびり寿司でも…と思ってロビーに降りたら、
滅多に会えない大御所の長谷川夫人の姿が見えた。
祖父とも親しかった、乳製品等を製造する会社の社長夫人だ。
キツイ印象の夫人が楽しそうに笑顔で若い女性と話している。

 その女性は、スラリとした身体を地味なスーツに包んでいる。
20代後半だろうか、落ち着いた感じの女性だ。
遠目で後ろ姿しか見えないが、肩までの柔らかそうな髪と、
スカートから伸びる細いが筋肉質な足が印象に残った。

彼女を意識しながらゆっくりと二人に近付いた。
 
 夫人に挨拶をして、その女性を紹介してもらおうかと考えて声を掛けた時
以前クライアントとの会食の席に、接待役として呼ばれていた女がしなだれかかってきた。
 
 取引先の社長夫人である長谷川綾音の機嫌も損ねたし、
夫人といた女性も挨拶することなくさっさと帰ってしまった。
煩い女を何とか引き離し、夫人の誤解を解いてから、改めて尋ねた。

「長谷川様、先程の方はお知合いですか?」
「あらあ、ダメよ高畑さんは既婚者なんだから
 あちこちの女性に声掛けちゃ。」
「いえ、奥様がとても親しそうになさっていたので…」
「仕事関係じゃないの。若いけど、とっても優秀な獣医さん。
 うちのペットちゃんたちの先生よ。」
「お名前伺ってもよろしいですか?」

「気になる?彼女美人だものね~。うちの息子のお嫁さんにしたいくらいよ。
 有名な牧場のオーナーのお孫さんで、森下彩夏さんって言うの。」



何とか笑顔を張り付けたが、この煩い夫人に動揺を見破られなかただろうか。
墓穴を掘ってしまった。聞くんじゃなかった。

今日二度目の、森下彩夏。

考えたくなかった、俺の妻だ。


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