エル・ディアブロの献身

「ああ。今、確認した。ありがとう。世話をかけたな。鷺沼(さぎぬま)
『いえ。貴方様のためならば、この命とて、喜んで献上致します』

 もう、どこだったかも覚えていない。けれども鮮明に覚えているのは、花もほとんど散ってしまった桜の木にロープを垂らし、今まさに命を断とうとしている草臥(くたび)れたスーツを着た男の姿だった。
 身体が弱く働けない妻と、心臓病を煩い病室から出られない娘がひとり。【普通】と呼ばれる家庭よりお金が必要だというのに、不景気を理由にリストラにあったのだと言ったその男は「せめて保険金を」と思ったらしい。

「鷺沼に死なれると俺は困るのだが」
『勿体ない、お言葉にございます』

 確か、中等部に入ったばかりの頃だっただろうか。その当時の自分は男の語った全てをきちんと理解したわけではなかったけれど、ただ、男には金が必要で、それを与えれば恩を売れるのだということだけは理解していた。
 運転手として雇い、妻をサポートするヘルパーを斡旋し、娘が手術を受けられるよう費用を与え、意図的に植え付けた彼の忠誠心をテストしたのは、花梛にあの下劣な人間との会話を聞かれた翌日。彼は顔色ひとつ変えず「かしこまりました」を吐き出し、そして完遂した。

「謙遜するな。事実だろう。花梛の父親の処分、花梛の身辺調査、そして今回。お前の功績は、細かいことを入れれば無数にある。感謝してもしきれない」
『……っ、ぼっちゃま、』
「はは。懐かしいな。その呼ばれ方は」
『は、申し訳ございません……つい、』
「気にしてない。お前も気にするな」

 まさか、これほどとは。
 初めは感嘆よりも驚きが(まさ)ったが、今では心の中で無音の称賛と拍手を繰り返してばかりだ。

『はい。して、ハナ様のご様子はいかがですか』
「隣室で寝ている。状況が状況だからな。少しばかりは心を開いてくれたようだ」
『さすればあとは、このまま貴方様と共にありたいと、思っていただくようにするだけなのですね』

 変わらぬトーンで吐き出された問いかけに、「ああ」と相槌(あいづち)をうとうとしたところで、僅かに空気が動く気配を感じた。
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