おじさんには恋なんて出来ない
 それから美夜は少しだけ忙しくなった。

 ライブの曲を練習したり、何度かリハーサルも行った。相手側の女性アーティストが年の近いためか、思いのほか気が合った。要求されることは多いが、そこは柔軟にカバーしていかなければならない。あくまでもサポートで演奏するのだから。

 夜に予定が入ることが多いので、辰美と会う時間は少し減った。何度か家にも泊まったが、美夜はバイトもあるし練習もあるので家に帰らなければならない。辰美は無理して来なくても俺が行くよと言ってくれたが、毎日仕事をしている辰美にわがままは言えなかった。

 ある日辰美と出掛けている時だった。辰美はふと、楽器屋の前で立ち止まった。

 よく見かける大型楽器店の前で、ショーウィンドウ越しに中のピアノを見つめている。

「辰美さん?」

 美夜は不思議に思って声を掛けた。

「ああ……ピアノがあったからついね。ちょっと見ていいかい?」

「はい」

 二人で店の中に入る。この楽器屋には一階にピアノやバイオリン、ギター。二階に細々としたものを置いているらしい。よくある楽器屋だから、特別珍しいものは置いていない。

 だが、美夜もピアニストの端くれだ。ピアノを見るとウズウズする。

「弾いてみたら?」

 辰美に勧められ、美夜は近くのピアノの前に座った。思うまま曲を奏でる。辰美はそれをそばで聞いていた。

 買うわけでもないのにこんな本気で弾くと店員は怒るだろうか。けれど辰美は喜んでいる。辰美が自分のピアノを聴けるのはライブかストリートかCDだけだ。

 美夜は嬉しそうに眺める辰美を見て、ふと考えた。

 ────そうだ。辰美さんの誕生日になにか曲を作ってあげたらいいんじゃない?

 辰美はピアノが好きだ。きっと喜んでくれる。それに、ピアノを弾ける自分にしかできないことだ。

「すごいな。美夜さんはどんなピアノでも弾きこなすね」

「そんなことないですよ。これ、電子ピアノですし」

「俺は詳しくないんだけど、こういうのって種類によって何か変わるのか? 値段もバラバラだろう」

「うーん、音が違います。あと弾き心地とか……機能の良し悪しもありますけど……」

「そうか……玄人じゃないとわからなさそうだな。美夜さんがいつも持ってる黒いキーボードも、音が違うのか?」

「あれは……ストリートで使うことが多いので、軽くてそこそこいい音が出るのにしたんです。他にも色々あったんですけどね」

「高いのか?」

「ネットで六万ぐらいで買いました。ここに置いてあるのは子供とか、家で習う時に使うようなものです。練習用にはちょうどいいと思いますよ」

 辰美の顔が難しくなる。多分、種類を全部説明したら混乱するかもしれない。仕事によって使うピアノの種類は大きく変わる。
 
 クラシックなんかのコンサートで弾くような人間はここにあるピアノは使わないだろう。アコースティックピアノと電子ピアノは違う。

 曲を作る側の人間ならレコーディング用のピアノを持っているし、あとで修正してしまうものだから軽さや弾き心地を気にしない人間もいる。だから選ぶピアノはまちまちだ。

 美夜の場合自分で弾いて聞かせることが多く、曲を作ることはあっても音源を作ることはあまりない。だからある程度音が良くて弾き心地重視で選んでいる。パフォーマンス用、と言った方が正しいかもしれない。

「色々あるんだな……」

「でも、弾くだけならどれでもいいと思いますよ。みんな好きなデザインと音で決めると思います」

「ピアニストは大変だね。こんなたくさんある中から選ばないといけないんだから」

 どうやら、余計に難しく考えてしまったらしい。

 多分、辰美がピアノを弾いたことがないから余計に分かりにくいのだろう。

 二人はそのまま適当にピアノを見て、店から出た。
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