おじさんには恋なんて出来ない
 現場は人で賑わっていた。幸い、置かれたストリートピアノには誰も座っていない。
 
 開始は十八時前後と告知しているが、誰も座っていないのなら少し早めに始めてもいいかもしれない。

 時間が合えば辰美も来てくれるだろうか。さっきは中途半端な状態で話が終わってしまったからなんだか気掛かりだ。

 やがてしばらく弾いていると人が集まりはじめた。今日は平日だから、仕事帰りのサラリーマンやOLが多い。

 人が止まりそうな季節にちなんだ曲や流行りの曲を弾きながら、時々自分の曲を混ぜる。周りにはスマホを構える人や仕事帰りの人達が立ち止まった。

 一つの曲が終わり、周りから拍手が鳴る。美夜は少し休憩を挟もうと手を休めた。

 スッと横から人影が近づいた。美夜は特に気にも留めず、その方を向いた。演奏の合間ファンが話し掛けてくることはよくあった。だからこの時もそうだろうと思い込んだ。
 
 椅子に座る美夜の横に現れたのは知らない女性だった。歳が四、五十ぐらいの女性は、黙って美夜を見つめた。

 それは今まで見た事のない表情だった。ファンが浮かべる笑顔でもなく、話し掛けてくる興味本位の通行人でもなく────例えるなら、「静かな怒り」。

 突然美夜の頬を何かが掠めた。すぐ近くに誰かの掌がある。さっきまで自分の横に立っていた中年女性の手だ。

 美夜はヒリヒリと痛む頬を手で抑え、女性の方を見た。

「痛い?」

 衝撃を受けて呆然とする美夜の耳に聞こえたのは、その張り手とは裏腹に静かな声だった。

「よくもそんな平然とピアノなんて弾けるわね。楽器を習ってると心が綺麗になるって言うけど、あなたみたいに浅ましい人間もいるのね」

 なんですかあなたは。

 突然近づいてきた女が自分の頬を打った。それは二十四年間生きてきて、経験したことのない珍事だった。いや、スキャンダルというべきだろうか。

 美夜が驚いているのと同じく、周囲にいた見物客も驚いている。さっきまであたりを覆っていた温かい拍手は消え、代わりに凍りついた空気が緊張感を誘った。

 ストリートピアノをしていると、時々こんな客に出くわすことがある。野次を飛ばす人間もいるし、後からSNSで酷評されることもある。人の視線を集める仕事だから、それは仕方ないことだと思っていた。

 だが、こんなことは初めてだ。突然会った人間が、自分に暴力を振るうなんて。

「あなたのせいよ……。あなたのせいで、《《辰美》》が迷ってるんだわ。私を捨ててこんな泥棒猫と一緒になるなんて……っ」

 《《辰美》》。

 目を血走らせた女はそう口走った。では、この女性はもしかして────。

 女は美夜の肩を掴むと強く揺すった。

「ねえっ。別れてよ! 何が目当てなの!? 金? それともブランドバッグでも買ってもらった? お小遣いをもらってるのっ!? どうせ金蔓だと思ってるんでしょう!」

「おいっやめないか!」

 見かねた美夜のファンが横から止めに入る。だが、女は余計に逆上して金切声を上げた。

「なによ! あんたもこの女に騙されてるの!?」

 一体何が起こっているのだろう。

 美夜は恐怖と驚きで体の力が抜けて、ふらふらと地面にへたり込んだ。女とファンが目の前で格闘している。カメラを向けられていると気付いていたが、そんなことを気にする余裕はなくなていた。

「雪美! やめるんだ!」

 突然、辰美の声が聞こえた。

 向こう側から走ってきた辰美は雪美に近づくと、酷く怒った様子で腕を掴んだ。

「こんなところで何をしてるんだ! 彼女に何をした!?」

「なによっ! みんなして私を邪険にして! 死んでやるっ! 死んでやるっ!」

 喚き散らす女に唖然とする周囲。美夜は呆然としながらも辰美を見つめた。辰美も、美夜を見つめた。その目は悲しそうに歪んだのち、すっと悟ったように感情をなくす。

「すみません、警察を呼んでもらえませんか」

 それは辰美が言ったとは思えないほど冷たい声だった。

 辰美の隣にいた美夜のファンは驚きつつも慌ててスマホを取り出して電話をかけ始めた。その間も辰美の妻は叫んでいた。
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