ふたつ名の令嬢と龍の託宣
 その時、一滴の水がリーゼロッテの首筋に落ちてきた。「ひゃっ」と声を上げると、ジークヴァルトが抱えていた体をぐいと遠くに押しのける。

「お前はここにいろ」

 リーゼロッテの首元に流れて落ちた雫を指で拭い取ると、ジークヴァルトは不機嫌そうに顔をしかめて馬車を降りていった。よく見ると髪が濡れている。ほのかに石鹸の香りがしたので、湯でも浴びたところだったのかもしれない。

(ハルト様が勝手に呼んだにしても、わたしのせいでまた迷惑を……)

 どうしてこうなってしまうのだろう。リーゼロッテが小さくため息を落とすと、ジークヴァルトはすぐに戻ってきた。ほどなくして馬車が走り出す。

「あの、エマニュエル様は……?」
「ヨハンと共に近くの街に向かった。そこで馬車を手配するよう言ってある」

 ほっと息をつくも、エマニュエルには申し訳ないことをしてしまった。強風が窓をがたがたと揺らす。車輪が回る音だけが響く馬車の中、リーゼロッテはようやく違和感に気がついた。

「あの、ヴァルト様……お膝に乗らなくてもよろしいのですか?」
「今日はいい。濡れるから近づくな」

 そっけなく言ってジークヴァルトは窓の外に視線をやった。そのまま沈黙が訪れる。

 ふたりで馬車に乗るとき、ジークヴァルトは大抵書類に目を通している。リーゼロッテも邪魔しないようにと、いつも黙って座っているのだが、今日はお互いに手持ち無沙汰だ。
(ヴァルト様とは、いつもどんな会話をしてたっけ)

 基本、ジークヴァルトから話しかけてくることはない。リーゼロッテが何かを問いかけたときと、必要事項を伝えるときのみ、その口を開くだけだ。

(わたし、ジークヴァルト様の事、何も知らないんだわ)

 ジークヴァルトは猫舌で、酸っぱいものが苦手で、乗馬がうまくて、何かを誤魔化す時にはすぐに顔をそらす。リーゼロッテが知っているのは、そんな表面的なことばかりだ。

『公爵様のすべてを分かった気でいるのかしら? なんておこがましい女なの』

 茶会でイザベラに言われたことを思い出した。本当に自分は、分かった気でいただけなのかもしれない。会話をするなら今しかない。誰もいないふたりきりのこの場なら、自分の本音も伝えられるはずだ。

「ヴァルト様、わたくしご迷惑でしたら、ダーミッシュのお屋敷でおとなしくしておりますわ」

 屋敷の部屋からほとんど出ることなく、今までもずっと過ごしてきたのだ。その頃にジークヴァルトに負担をかけることは何もなかった。今は、それがいちばんいい方法なのだと思えてくる。

「お手紙も毎日書きますから」
「いや、駄目だ、お前はオレのそばにいろ」

 ぎゅっと眉根を寄せる。こういう時、ジークヴァルトは自分の意見を絶対に曲げない。だが、ここで自分が引いては元の木阿弥(もくあみ)だ。
(少しはルカを見習わなくちゃ)

 ツェツィーリアがへそを曲げたとき、ルカはその思いを受け止めようと、根気よく対話を続けていた。それに、ツェツィーリアのためにいろんな情報を仕入れ、知ろうとする努力を今でも怠らないでいる。それこそ、ツェツィーリアを取り巻くすべてのことを、理解しようとしている勢いだ。

「でしたら、わたくしができることは何かございませんか? ヴァルト様にばかりに負担を強いているようで、わたくし……」
「いい。お前に落ち度はない。ダーミッシュ嬢はそのままでいればいい」
「そのまま……」

 リーゼロッテは口をつぐんだ。ジークヴァルトはいつもそう言う。そう言って、リーゼロッテを遠ざける。

「では、わたくしはこのまま何もせず、当たり前のように守られていればそれでいいと、ジークヴァルト様はそうおっしゃるのですか?」
「ああ、そうだ」

 顔をそらした髪から雫が落ちて、ジークヴァルトのシャツをまだらに濡らしていく。洗いざらしの髪の横顔は、いつもよりもずっと子供っぽく見えた。
 ハンカチを取り出して、リーゼロッテはその雫をぬぐおうとした。その髪に届く前に大きな手に掴まれる。

「いい。お前が濡れる」
 ぐいと押し戻されて、どうしたらいいのかもうわからなくなってしまった。だが、こんなかみ合わないやり取りは、今日に始まったことではない。

「わたくしは、何のためにヴァルト様の横にいるのでしょう」
「……お前は、オレの託宣の相手だ」

 今にも泣きそうな瞳で見上げるリーゼロッテに、そんな言葉が返ってきた。リーゼロッテから目をそらし、風が叩き続ける窓に向き直る。その後ジークヴァルトは、不機嫌そうに黙りこくった。

「そう……でしたわね」

 リーゼロッテも反対の窓に目を向けた。要するに自分である必要はないのだ。託宣の相手だから守りはするが、干渉はされたくない。それならそうと、はっきり言ってくれた方が気が楽なのに。

 だが、リーゼロッテはそれ以上何も言えなかった。言ってしまったら、今度こそ、涙が溢れそうだった。

     ◇
「旦那様、いきなりいなくなるのは、もう勘弁してくださいよ」
「非常事態だ」

 ふいと顔をそらすジークヴァルトに、マテアスはわざとらしく大きなため息をついた。

「そう言ったご事情なら仕方ないですけどね、心配して探し回るこちらの気持ちもお察しください」
「分かっている」

 リーゼロッテが戻ってきたというのに、ジークヴァルトは不機嫌なままだ。予定よりも三時間以上も早く会えたのだ。もっと浮かれていても良さそうなものだった。

「道中、喧嘩でもなさったのですか?」

 戻ってきたリーゼロッテも口数が少なかった。みなに笑顔は向けていたものの、その顔を見たエラの反応を見ると、やはりいつもと様子が違っていたのだろう。

「そんなものはしていない」
「でしたらどうしてリーゼロッテ様は、あんなにも落ち込んでおられたのでしょう?」

 ぐっと眉根を寄せたジークヴァルトに、マテアスは馬車の中でどんな会話をしたのかを問いただした。基本ジークヴァルトは、マテアスの言うことは素直に聞き入れる。従者という立場であるが、子供の頃からマテアスは、ジークヴァルトにとっては兄のような存在だった。

「なるほど、わかりました。要するに旦那様は、公爵家の呪いを発動させたくなくて、リーゼロッテ様にわざとそっけなくされたというわけですね?」

 ふいと顔をそむけるジークヴァルトに、マテアスは困ったような顔を向けた。その努力は褒めてやりたいが、話を聞いた限りでは、リーゼロッテが誤解するのも無理はないだろう。ジークヴァルトがこんなにも及び腰になるのは、リーゼロッテに対してだけだ。普段の判断能力が嘘のように思えてくる。

「なんにせよ、ヴァルト様は圧倒的に言葉が足りないですね。少しは努力をしないと、本当に嫌われますよ」

 マテアスの苦言に、ジークヴァルトはただ言葉を詰まらせた。

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