ふたつ名の令嬢と龍の託宣

【第17話 こころ結んで】

「これでいいんだろう?」

 最後に(ついば)むように下唇に口づけると、ジークヴァルトはようやくその顔を離した。

 遠くから人が近づく気配がする。酔ったような陽気な声に眉を(ひそ)め、もう一度リーゼロッテへと視線を落としてきた。
 頬に走る傷に顔をしかめてから、脱力したリーゼロッテの膝裏をすくい上げる。そのまま横抱きに抱え上げると、ジークヴァルトは庭の小道を通って人目のつかない裏口へと向かった。

 放心したままリーゼロッテは、その腕の中、震える指先で自身の唇に触れた。一体何が起きたというのだろうか。だがいまだ濡れた唇が、先ほどの口づけが嘘ではないことを物語っている。

 裏口から人気(ひとけ)のない廊下を進んだところで、使用人にでくわした。抱えられたリーゼロッテを見て、はっとした顔をする。ジークヴァルトは隠すようにリーゼロッテをさらに胸に抱き寄せた。

「どこか部屋を」
「は、はい、こちらでございます」

 使用人は先導して一室の扉を開け、中へと(いざな)った。

「ブルーメ家の侍女を呼んできてくれ」
「え? ブルーメ家でよろしいのですか?」
「ああ」

 (いぶか)しげな顔をしながらも、使用人は「承知いたしました」と頭を下げて扉を閉めた。

 そんなやり取りをぼんやりと聞いていた。これでいいんだろう。ジークヴァルトが言ったその言葉だけが、先ほどからずっと頭の中を回っている。

「これで……いいんだろう、ですって?」

 ふつふつと怒りが湧き上がってきた。がしっと耳ごと頭を挟み込み、ジークヴァルトの顔を自分へと向けさせる。突然のことに目を見開き、リーゼロッテを抱えたままジークヴァルトは動きを止めた。

「いいわけなどあるものですか……! あんな、あんな……っ」

 感情が(たかぶ)って言葉に詰まった。口づけのひとつもすれば、名ばかりの婚約者でなくなるとでも思ったのか。こころの伴わない口づけなど一体何の意味があるというのだ。そんな浅はかな考えに怒りを覚えて、もりもりと涙がせりあがってくる。

(今さら面倒くさい女だと思われたってかまわない……!)
 もうどうなってもいい。よほど面倒くさいのはこの男の方ではないか。

 ぼろぼろと涙をこぼしながら、リーゼロッテは青の瞳をまっすぐに睨みつけた。

「口づけたところで形ばかりの婚約者に変わりないではありませんか!」

 一度口にしたらもう止めることができなくなった。とめどなく流れる涙と同じで、次々と言葉が(あふ)れ出す。

「守るのが義務だとおっしゃるのなら、そんなものもう必要ございませんわ! ご心配なさらなくても、これからも婚約者としての義務はきちんと果たします。夜会にも出ますし、人前では仲睦まじげにふるまいますわ。託宣が果たされたら、ちゃんとわたくしからジークヴァルト様を自由にしてさしあげます! ですからもうこれ以上、ご自分を(だま)すような真似(まね)はなさらないでくださいませ……!」

 最後の方はもはや懇願(こんがん)だった。ジークヴァルトと(つな)がるこの糸は、ぐちゃぐちゃにこんがらがって、もう(ほど)くことすらかなわない。

「それに、ジークヴァルト様はお慕いする方がいらっしゃるくせに、それなのに、わたくしにあんな……あんなこと……」
「……一体なんのことだ?」

 ずっと黙っていたジークヴァルトが口を(はさ)んできた。ぐっと眉根を寄せたままリーゼロッテを見つめ返してくる。

「とぼけないでくださいませ。わたくしマテアスとの会話を聞きました。ジークヴァルト様には今も思う初恋の方がいらっしゃるって……!」
 隠さなくったっていい。もうわかっているから、これ以上(いつわ)るのはやめてほしい。

 一瞬だけ驚き顔になったジークヴァルトは、ゆっくりとリーゼロッテをひとり掛けのソファへと降ろした。そのまま閉じ込めるように(おお)いかぶさってくる。
 (ほだ)されなどするものか。頬に伸ばされた手をリーゼロッテは咄嗟に払いのけた。

 それでもジークヴァルトは再び指を伸ばし、頬に流れる涙をぬぐってくる。いやいやと首を振って、リーゼロッテはその手首を掴み取った。
 すべっていくあたたかな指に、余計に溢れ出る涙が止まらない。同情でやさしくなどしてほしくない。今も思う人がいるのなら、思い切り突き放してほしかった。

「お前だ」

 ふいに言われ、リーゼロッテは思わず顔を上げた。すぐそこにある青い瞳と見つめ合う。それ以上何も言ってこないジークヴァルトの顔を、意味が分からずしばらくじっと見ていた。

「だから、お前だ」
「……なにが、わたくしですの?」

 青の瞳は自分を(とら)えて離さない。同じ言葉を再び言われ、リーゼロッテは(わず)かに首をかしげた。

「オレの初恋の相手というのは、お前のことだ。リーゼロッテ」
「え……?」

 見開いた瞳から、たまった涙がぽろりとこぼれ落ちる。思考が停止したように、まるで理解が追いつかなかった。

「子供の頃に一度会いに行っただろう。そのときだ」
「ですが、あの日……わたくし泣きましたわ」

 震える唇が問う。そうだ、あの日、黒いモヤがかかるジークヴァルトを見て、自分は恐ろしさのあまり大泣きしてしまった。そんな相手に恋をするなど、果たしてそんなことがあるのだろうか。

「ああ……あの日、泣いたお前も可愛かった」

 ふっとジークヴァルトの瞳が愛おしそうに細められた。親指の腹で涙をぬぐい取り、ゆっくりと顔を近づける。リーゼロッテの唇を、そして小さく(ついば)んだ。

 リーゼロッテの顔が真っ赤に染まる。それと同時に部屋中のありとあらゆるものがドカンと揺れた。

 盛大に発動した公爵家の呪いは、瞬間、爆風のように広がったリーゼロッテの力によって、一瞬で相殺(そうさい)されたのだった。

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