ふたつ名の令嬢と龍の託宣
     ◇
「ふぅ、やれやれ」

 (イザベラ)の追跡を振り切って、ニコラウスは大きく息をついた。おかげで夜会の会場から離れ、随分と奥まったところに来てしまった。
 侯爵家の人間に見とがめられたら、怪しい奴だと目をつけられてしまうかもしれない。何しろデルプフェルト家は諜報(ちょうほう)活動に特化した一族だ。敵に回したら厄介なことこの上ない。
 いい年をして迷ったなどという言い訳も見苦しいだろうと思い、ニコラウスは来た廊下を戻ろうとした。

(それにしてもイザベラのやつ、急に一体どうしたんだ?)

 今までは誰でもいいから早く結婚して、自分の代わりに伯爵位を継げと迫っていたくせに、今日にきていきなり親しくなった令嬢との間に邪魔するように割り込んできた。
 今回は顔見知りの令嬢と踊っていただけなのでよかったものの、本命の女性の前でやられたらたまったものではない。

(もっとも、いつも本命にはフラれてばかりだけどな)
 そんな自分の考えに情けなくなって、ニコラウスはひとり涙ぐみそうになった。

「あれ? エーミール様?」

 廊下の向こうにぽつりと立っているエーミールの姿が見え、ニコラウスは首をかしげた。正装をしているところを見ると、彼も夜会に招待されたのだろう。だがこの程度の規模の夜会にエーミールが来ていたのなら、気づかないなどあり得なかった。
 エーミールはとにかく目立つしとにかくモテる。夜会に出れば令嬢たちに囲まれ、既婚女性からも次々にお声がかかる。それをうまいことさばいていくのだから、そのスキルに感嘆するより他はない。

「エーミール様、どうしたんすかこんなところで?」
「……ニコラウスか」

 ちらりとこちらを見て、エーミールはすぐまた顔を戻した。そのまま何もない床を、じっと見つめている。

「何かあったんすか?  そんな女にフラれたみたいな顔して」

 その言葉にはっと顔を上げて、エーミールはぎりと(にら)んできた。そしてまた視線を()らされる。

「え? 何? 嘘、マジで!?」

 エーミールをフる女性がいるなど驚きだ。しかも目の前のエーミールは相当本気で落ち込んでいる。

「やべ、どうしよ。めっちゃ親近感っ」
「その五月蠅(うるさ)い口を今すぐ閉じないと、叩き切るぞ」

 地獄の底から響いてくるような声で言われ、ニコラウスは慌てて首を振った。

「あああ、嘘ですごめんなさい! エーミール様、カッコイイ! よっこのモテ男!」

 瞬時に放たれた殺気に、ニコラウスは思わず一歩飛び退()いた。エーミールが帯剣してなくてよかった。もし護衛騎士のいで立ちだったなら、瞬殺されていたに違いない。

「ん? 何だかたのしそうだね?」
「か、カイ・デルプフェルトっ!」

 いきなり背後を取られたニコラウスは、思わず大声で叫んでいた。てんぱりすぎてカイを呼び捨てたことにすら気づかない。

「やあ、ブラル殿とは初めましてかな? 噂はかねがね聞いてるよ」
「ひょっ! そんな……かの有名なデルプフェルト様に認知されているとは……! オレ、この前のフーゲンベルク家の騒ぎの調書、めちゃくちゃ感動したっす。あんな素晴らしいもの、今まで見たことなくって」
「ああ、泣き虫ジョンのだね。はは、あれはオレもなかなかの力作だと思ってたんだ。ありがとう」

 言っても、リーゼロッテの言葉をそのまま清書しただけである。あれほど簡単な調書はなかったと思っているカイだった。

「カイ・デルプフェルト……()()の貴様がどうしてここに……!」
「やだなぁ、グレーデン殿。ここオレん()だって。さすがに今日は勘弁してよ」

 軽く肩をすくめて言う。あんな騒ぎの後だ。ジークヴァルトが心配だろうと思って、わざわざ政敵の家の人間であるエーミールにも招待状を送ってやったのだ。
 それが分かっていたエーミールは、ぐっと口をつぐんだ。ニコラウスだけがぽかんとふたりのやり取りを見守っている。

「ん?」

 ふと遠くに違和感を覚え、三人は同時にそちらへと視線を向けた。まっすぐ伸びた廊下の先、その奥から緑の何かが迫って来ている。

「「「ぬおおおおおぉおおおぉおうっっっ!」」」

 次の瞬間、緑は三人の間を爆風のように走り抜けた。圧倒的な力にねじ伏せられるように、頭からつま先まで下に押し付けられる。
 あっという間に過ぎ去った重圧に、三人はもれなく床へと這いつくばっていた。やっとの思いで顔を上げると、辺りを満たすのは清々(すがすが)しいほどの澄んだ空気だ。

 その覚えのある清廉(せいれん)な力に、いちばんに反応したのはカイだった。

「あんのふたり……! オレを殺す気かよ!」

 がばりと身を起こし、力が向かって来た方向へと即座に走り出す。

「……ジークヴァルト様!」
 はっとしたように、エーミールがそれに続いて走っていく。

 俊足で遥か向こうに消えていったふたりに、ニコラウスだけがただぽかんと廊下に取り残されたのだった。

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