ふたつ名の令嬢と龍の託宣
◇
雨上がりの空気はことさら寒い。こんな日に庭に出ると足元が汚れてしまうため、リーゼロッテはおとなしく部屋の中に引きこもっていた。
「それに今日は神官様がやってくるって、アルベルト様が言ってたものね」
そういう時はあまりうろつくなとくぎを刺されている。お世話になっている以上、従う方がいいだろう。
自分で淹れた紅茶を飲みながら、もくもくと焼き菓子を頬張った。三食に加えて、午前、午後とおいしい菓子が毎日欠かさず配給される。食べつつも、太ってしまわないか心配になってきた。
「その分、運動すればいいかしら?」
東宮は五階建てだ。階段の昇り降りだけでも重労働だった。王女の呼び出しにへばらないためにも、普段から足腰を鍛えておくのが得策だろう。ここは健脚を目指すしかない。
「それにしてもおいしくないわね」
紅茶を含んで口をすぼめる。自分が淹れると渋さばかりが際立って、まずいとしか言いようがない。淑女教育の一環で紅茶の淹れ方はきちんと習っている。それなのにどうやってもおいしくならないのはなぜなのか。
「今度エラにコツを聞いてみなくちゃ」
先ほどから独り言ばかりつぶやいている自分に気づく。
「話し相手がいないって、こんなにつらいのね……」
ため息をつきながら口直しの菓子に手を伸ばす。こんな生活ではやはり確実に太りそうだ。そう思って手を引っ込めた。
「食べきると、次の日ちょこっと量が増えているのよね」
日本人のもったいない精神で、なかなか残すことができないリーゼロッテだ。しかし残さず食べると料理人が足りなかったのだと判断するのか、少しずつ菓子の数や種類が増えていく。
それが分かると無理には食べずに、あきらめて残すことにした。自分で節制しないと、そのうちとんでもないことになる。
「厨房の人にも一度会えるといいけれど……」
おいしい料理のお礼も言いたい。とにかく人恋しくて仕方がなかった。
ため息交じりに知恵の輪をかちゃかちゃいじる。夜会の合間に暇な時間ができたらと、なんとなくポケットに忍ばせておいたものだ。暇つぶしになるものがこれしかなくて、リーゼロッテは心を無にして知恵の輪を動かした。
しかし動かせどまったく外れる様子はない。マテアスもエラも、あんなにすんなり外していたのに、どれだけやっても絡まったままだ。
「いいのよ。この知恵の輪もこんなに長い時間いじってもらえて、暇つぶし冥利に尽きるというものだわ」
自分を納得させるように大きく頷く。その時、つんざくような鶏の鳴き声が庭に響いた。
「マンボウ?」
マンボウが雄叫びを上げるのは、基本早朝だけだ。日が昇ってしばらくしたこんな時間に、鳴きだすのはめずらしいことだった。
「オエーッオッオッオッ! オエーーーーッ!!」
朝と比べものにならないくらいのけたたましい鳴き声だ。驚いてテラスから外を見下ろした。姿は見えないが、雄叫びは庭を右に左に不規則に移動していく。植木が不自然に揺れるので、恐らくその辺りを駆けまわっているのだろう。
「うわっ! いたっ! も、やめ、やめてっ」
「オエーーーーッ!! オッオッオッ!」
「ぎゃっ!」
マンボウの叫びの中に、誰かの悲鳴が混じる。茂みの合間でマンボウの羽がばたついた。それに追われるように、白い長衣を着た少年が、頭を庇いながら庭の中を走りまわっている。
「オッオェーーーーッ!!」
「ぎゃーーーーっ!」
鶏ってこんなに高く飛ぶんだ、というほどの華麗な飛翔を見せ、マンボウは少年の頭上に躍り出た。大きく羽ばたきながら滞空時間を稼ぎつつ、脚の爪で、嘴で、鬼のような攻撃を繰り出していく。
「いたっいたいっいたいっ」
「駄目よ! マンボウ、やめなさい!」
リーゼロッテは慌てて大声で叫んだ。テラスの手すりから身を乗り出して、マンボウに届くように声を張り上げる。
「その方は神官様よ、つついては駄目!」
少年が身に纏う長衣は神官服だ。雨に濡れた庭を走り回って、泥だらけになっている。リーゼロッテと目が合うと、少年は一目散に駆け寄ってきた。
建物近くの大木に、少年は飛びつくようにしがみつく。マンボウに追い立てられて、少年はするすると木の上まで昇っていった。
先ほどより近くで少年と目が合った。二階にいるリーゼロッテより少しだけ低い位置で、だがこちらに飛び移ることはできない。そんな微妙に遠い距離だ。
マンボウは跳躍しながら何度も何度も、木につかまる少年に猛攻を仕掛けに行く。届きそうで届かない。鋭い嘴に、少年は震えながら太めの枝に移動した。
「駄目ったら! マンボウ、いいからやめなさい!」
リーゼロッテが庭下に向かって叫ぶ。覗きこんだ拍子に、ゆるく編まれた三つ編みがぷらりと揺れた。
「オエーーーーッ!!」
渾身の叫びとともに、マンボウがいきなりリーゼロッテに向かって羽ばたいてくる。驚いて半歩下がるも、マンボウは手すりに停まっておとなしく翼をしまった。ご機嫌そうに「オェ」っとひと声鳴いてくる。
「あ……マンボウは門番だったわね」
それも男には容赦しない恐ろしい門番だ。先ほどのバーサーカーのような姿を目にして、王女の言っていたことにリーゼロッテはようやく納得できた。
「あの……助けてくださってありがとうございます」
木の枝からか細い声が聞こえる。
「オェーッ!」
鋭い羽音と共に、強めの風が生まれた。手すりにつかまったまま翼を広げて、少年に向けて再び威嚇する。
「マンボウ、めっ!」
慌てて止めるとマンボウは、太眉をきりっとさせたまま「オエッ?」と頚を傾けた。その愛嬌のある姿に胸をなでおろす。
雨上がりの空気はことさら寒い。こんな日に庭に出ると足元が汚れてしまうため、リーゼロッテはおとなしく部屋の中に引きこもっていた。
「それに今日は神官様がやってくるって、アルベルト様が言ってたものね」
そういう時はあまりうろつくなとくぎを刺されている。お世話になっている以上、従う方がいいだろう。
自分で淹れた紅茶を飲みながら、もくもくと焼き菓子を頬張った。三食に加えて、午前、午後とおいしい菓子が毎日欠かさず配給される。食べつつも、太ってしまわないか心配になってきた。
「その分、運動すればいいかしら?」
東宮は五階建てだ。階段の昇り降りだけでも重労働だった。王女の呼び出しにへばらないためにも、普段から足腰を鍛えておくのが得策だろう。ここは健脚を目指すしかない。
「それにしてもおいしくないわね」
紅茶を含んで口をすぼめる。自分が淹れると渋さばかりが際立って、まずいとしか言いようがない。淑女教育の一環で紅茶の淹れ方はきちんと習っている。それなのにどうやってもおいしくならないのはなぜなのか。
「今度エラにコツを聞いてみなくちゃ」
先ほどから独り言ばかりつぶやいている自分に気づく。
「話し相手がいないって、こんなにつらいのね……」
ため息をつきながら口直しの菓子に手を伸ばす。こんな生活ではやはり確実に太りそうだ。そう思って手を引っ込めた。
「食べきると、次の日ちょこっと量が増えているのよね」
日本人のもったいない精神で、なかなか残すことができないリーゼロッテだ。しかし残さず食べると料理人が足りなかったのだと判断するのか、少しずつ菓子の数や種類が増えていく。
それが分かると無理には食べずに、あきらめて残すことにした。自分で節制しないと、そのうちとんでもないことになる。
「厨房の人にも一度会えるといいけれど……」
おいしい料理のお礼も言いたい。とにかく人恋しくて仕方がなかった。
ため息交じりに知恵の輪をかちゃかちゃいじる。夜会の合間に暇な時間ができたらと、なんとなくポケットに忍ばせておいたものだ。暇つぶしになるものがこれしかなくて、リーゼロッテは心を無にして知恵の輪を動かした。
しかし動かせどまったく外れる様子はない。マテアスもエラも、あんなにすんなり外していたのに、どれだけやっても絡まったままだ。
「いいのよ。この知恵の輪もこんなに長い時間いじってもらえて、暇つぶし冥利に尽きるというものだわ」
自分を納得させるように大きく頷く。その時、つんざくような鶏の鳴き声が庭に響いた。
「マンボウ?」
マンボウが雄叫びを上げるのは、基本早朝だけだ。日が昇ってしばらくしたこんな時間に、鳴きだすのはめずらしいことだった。
「オエーッオッオッオッ! オエーーーーッ!!」
朝と比べものにならないくらいのけたたましい鳴き声だ。驚いてテラスから外を見下ろした。姿は見えないが、雄叫びは庭を右に左に不規則に移動していく。植木が不自然に揺れるので、恐らくその辺りを駆けまわっているのだろう。
「うわっ! いたっ! も、やめ、やめてっ」
「オエーーーーッ!! オッオッオッ!」
「ぎゃっ!」
マンボウの叫びの中に、誰かの悲鳴が混じる。茂みの合間でマンボウの羽がばたついた。それに追われるように、白い長衣を着た少年が、頭を庇いながら庭の中を走りまわっている。
「オッオェーーーーッ!!」
「ぎゃーーーーっ!」
鶏ってこんなに高く飛ぶんだ、というほどの華麗な飛翔を見せ、マンボウは少年の頭上に躍り出た。大きく羽ばたきながら滞空時間を稼ぎつつ、脚の爪で、嘴で、鬼のような攻撃を繰り出していく。
「いたっいたいっいたいっ」
「駄目よ! マンボウ、やめなさい!」
リーゼロッテは慌てて大声で叫んだ。テラスの手すりから身を乗り出して、マンボウに届くように声を張り上げる。
「その方は神官様よ、つついては駄目!」
少年が身に纏う長衣は神官服だ。雨に濡れた庭を走り回って、泥だらけになっている。リーゼロッテと目が合うと、少年は一目散に駆け寄ってきた。
建物近くの大木に、少年は飛びつくようにしがみつく。マンボウに追い立てられて、少年はするすると木の上まで昇っていった。
先ほどより近くで少年と目が合った。二階にいるリーゼロッテより少しだけ低い位置で、だがこちらに飛び移ることはできない。そんな微妙に遠い距離だ。
マンボウは跳躍しながら何度も何度も、木につかまる少年に猛攻を仕掛けに行く。届きそうで届かない。鋭い嘴に、少年は震えながら太めの枝に移動した。
「駄目ったら! マンボウ、いいからやめなさい!」
リーゼロッテが庭下に向かって叫ぶ。覗きこんだ拍子に、ゆるく編まれた三つ編みがぷらりと揺れた。
「オエーーーーッ!!」
渾身の叫びとともに、マンボウがいきなりリーゼロッテに向かって羽ばたいてくる。驚いて半歩下がるも、マンボウは手すりに停まっておとなしく翼をしまった。ご機嫌そうに「オェ」っとひと声鳴いてくる。
「あ……マンボウは門番だったわね」
それも男には容赦しない恐ろしい門番だ。先ほどのバーサーカーのような姿を目にして、王女の言っていたことにリーゼロッテはようやく納得できた。
「あの……助けてくださってありがとうございます」
木の枝からか細い声が聞こえる。
「オェーッ!」
鋭い羽音と共に、強めの風が生まれた。手すりにつかまったまま翼を広げて、少年に向けて再び威嚇する。
「マンボウ、めっ!」
慌てて止めるとマンボウは、太眉をきりっとさせたまま「オエッ?」と頚を傾けた。その愛嬌のある姿に胸をなでおろす。