ふたつ名の令嬢と龍の託宣
【第9話 移ろいの兆し】
「それではハインリヒ様。まずは軽く目をつむり、ゆっくりと呼吸をなさってください」
神官長の言葉に、ハインリヒはあぐらの姿勢で瞳を閉じた。
「ゆっくりと吸って、ゆっくりと吐く……吐く時間は吸う時よりも時間をかけて、細く、長く……そう、全身の力を抜いて、呼吸にだけ意識を向けてください……」
神官長の声は耳に心地よい。眠りにつく一歩手前のような、そんな状態に引き込まれていく。
ここは祈りの間だ。この国の王は月に一度、この場で青龍に祈りを捧げるしきたりがある。王位を継いだ後に、ハインリヒもその儀式を受け継いでいく。そのための前準備として、瞑想の指導を受けていた。
(ミヒャエル司祭枢機卿は素直に自白を始めたか……)
瞳を閉じた暗闇の中、カイから受けた報告が頭をよぎった。
新年を祝う夜会で、ハインリヒとリーゼロッテの命を狙ったこと。この冬にフーゲンベルク家で起きた異形の騒ぎ。十三年前、前の神官長を殺害したことも、それに伴い罪のない人間を多数殺めたことも、洗いざらいミヒャエルは自供しているとのことだった。
ミヒャエルが捕まった今、危険は去ったはずだ。
(それなのにリーゼロッテ嬢に神託が降りた――)
力を貸したという星を堕とす者については、ミヒャエルは曖昧な供述に終始している。紅い穢れを纏った異形の狙いは一体何なのか。
(王城とフーゲンベルク家での騒ぎは、司祭枢機卿の意思で行われたことだ)
だがグレーデン家とデルプフェルト家に星を堕とす者が現れたことを、ミヒャエルは何も知らなかったらしい。
(やはり紅の異形が狙っているのは、リーゼロッテ嬢ということか……)
彼女は今、東宮で保護されている。あそこは姉姫であるクリスティーナがいる場所だ。ハインリヒは行ったことはないが、青龍の加護に厚く守られた聖地だと聞いていた。
ふとジークヴァルトの不機嫌顔が浮かんだ。リーゼロッテと引き離されて、登城してもここ最近は気もそぞろにしている。だが龍から降りた神託に逆らうことなど、王族であってもできはしない。もし自分がアンネマリーと会えなくなったら。そう思うとぞっとした。
「随分と雑念が混じっておいでのようですね。今日はここまでといたしましょう。そのまま深呼吸を三度してから目をお開けください」
神官長の声にはっと我に返る。言われた通りに呼吸をし、ハインリヒはゆっくりと瞳を開いた。
「青龍の御許に行くためには、深い瞑想に入る必要があります。余計な思考を抜かないと、その境地に辿り着くことは叶いません」
「ああ、次からは気をつけよう」
いまだクリアになりきらない状態から醒めるために、ハインリヒは軽く頭を振った。
「何、歴代の王がみな熟されてきたこと。焦らず回を重ねてまいりましょう」
祈りの間を出て執務室に戻る。王太子用のこの部屋も、いずれ引き払うことになるだろう。
王位を継ぐ準備は、着実に進んでいる。自分の置かれる立場が否応なしに変わりつつあるのを、ハインリヒは肌で感じとっていた。
(大丈夫だ。わたしはもうひとりではない)
重圧に押しつぶされそうになるとき、必ずアンネマリーの存在を近くに感じる。今まで通りやるべきことをやり続けるだけだ。それは王になろうとも変わることはない。
今夜は王城で白の夜会が開かれる。それまで少しでも多く執務を片付けようと、ハインリヒは書類の山に集中した。
神官長の言葉に、ハインリヒはあぐらの姿勢で瞳を閉じた。
「ゆっくりと吸って、ゆっくりと吐く……吐く時間は吸う時よりも時間をかけて、細く、長く……そう、全身の力を抜いて、呼吸にだけ意識を向けてください……」
神官長の声は耳に心地よい。眠りにつく一歩手前のような、そんな状態に引き込まれていく。
ここは祈りの間だ。この国の王は月に一度、この場で青龍に祈りを捧げるしきたりがある。王位を継いだ後に、ハインリヒもその儀式を受け継いでいく。そのための前準備として、瞑想の指導を受けていた。
(ミヒャエル司祭枢機卿は素直に自白を始めたか……)
瞳を閉じた暗闇の中、カイから受けた報告が頭をよぎった。
新年を祝う夜会で、ハインリヒとリーゼロッテの命を狙ったこと。この冬にフーゲンベルク家で起きた異形の騒ぎ。十三年前、前の神官長を殺害したことも、それに伴い罪のない人間を多数殺めたことも、洗いざらいミヒャエルは自供しているとのことだった。
ミヒャエルが捕まった今、危険は去ったはずだ。
(それなのにリーゼロッテ嬢に神託が降りた――)
力を貸したという星を堕とす者については、ミヒャエルは曖昧な供述に終始している。紅い穢れを纏った異形の狙いは一体何なのか。
(王城とフーゲンベルク家での騒ぎは、司祭枢機卿の意思で行われたことだ)
だがグレーデン家とデルプフェルト家に星を堕とす者が現れたことを、ミヒャエルは何も知らなかったらしい。
(やはり紅の異形が狙っているのは、リーゼロッテ嬢ということか……)
彼女は今、東宮で保護されている。あそこは姉姫であるクリスティーナがいる場所だ。ハインリヒは行ったことはないが、青龍の加護に厚く守られた聖地だと聞いていた。
ふとジークヴァルトの不機嫌顔が浮かんだ。リーゼロッテと引き離されて、登城してもここ最近は気もそぞろにしている。だが龍から降りた神託に逆らうことなど、王族であってもできはしない。もし自分がアンネマリーと会えなくなったら。そう思うとぞっとした。
「随分と雑念が混じっておいでのようですね。今日はここまでといたしましょう。そのまま深呼吸を三度してから目をお開けください」
神官長の声にはっと我に返る。言われた通りに呼吸をし、ハインリヒはゆっくりと瞳を開いた。
「青龍の御許に行くためには、深い瞑想に入る必要があります。余計な思考を抜かないと、その境地に辿り着くことは叶いません」
「ああ、次からは気をつけよう」
いまだクリアになりきらない状態から醒めるために、ハインリヒは軽く頭を振った。
「何、歴代の王がみな熟されてきたこと。焦らず回を重ねてまいりましょう」
祈りの間を出て執務室に戻る。王太子用のこの部屋も、いずれ引き払うことになるだろう。
王位を継ぐ準備は、着実に進んでいる。自分の置かれる立場が否応なしに変わりつつあるのを、ハインリヒは肌で感じとっていた。
(大丈夫だ。わたしはもうひとりではない)
重圧に押しつぶされそうになるとき、必ずアンネマリーの存在を近くに感じる。今まで通りやるべきことをやり続けるだけだ。それは王になろうとも変わることはない。
今夜は王城で白の夜会が開かれる。それまで少しでも多く執務を片付けようと、ハインリヒは書類の山に集中した。