ふたつ名の令嬢と龍の託宣
【第13話 受け継ぎし者 -中編-】
「おめでとう、アンネマリー! わたくしに甥ができるのね!」
王妃の離宮を訪ねるなり、第三王女のピッパが飛びつくように抱き着いてきた。勢いでよろけたアンネマリーに、慌てたハインリヒがその背を支える。
「ピッパ様、王女ともあろうお方がなんと落ち着きのない」
「だってうれしいんだもの! アンネマリーに赤ちゃんができたのよ?」
「また呼び捨てなどにして。アンネマリー様は間もなく王妃殿下になられるのですよ」
「いいのよ、ルイーズ。今は公式な場でもないのだから」
ピッパを窘める女官のルイーズに、アンネマリーは穏やかな笑顔を返した。
「いいえ、ピッパ様はこれから多くの貴族の前に出る機会が増えてまいります。公私をきちんと使い分けられるならともかく、今のままでは目も当てられないことになりかねません」
「場をわきまえることくらいわたくしにだってできるわ」
不服そうに言ってピッパは優雅に淑女の礼を取る。
「アンネマリー王太子妃殿下、ご懐妊おめでとうございます。国の安泰を思うと、わたくしも王女としてよろこばしいですわ。健やかな御子の誕生を、心よりお祈り申し上げております」
「あたたかいお言葉に感謝します、ピッパ王女」
それに向けてアンネマリーも鷹揚に頷いた。
「ほら、どう? ちゃんとできるでしょう?」
ピッパが自慢げに胸を反らせたときに、カイを連れたイジドーラ王妃が姿を現した。
「アンネマリー、体調に問題はなくて?」
「はい、イジドーラお義母様。まだ実感はないのですけれど、なんだか最近やたらとお腹が空いてしまって……」
「子が欲しがっているのね。気にせず食べるといいわ」
アンネマリーの両手がそっと腹に添えられる。その上にハインリヒの手が重ねられ、ふたりはしあわせそうに微笑み合った。
「ハインリヒ様、この度は誠におめでとうございます」
「ああ、ありがとう。カイ……お前にはいろいろと気苦労をかけた」
「いいえ、すべて順調に事が運んでオレも本当にうれしく思っていますから。それでハインリヒ様は、もう女性に触れても大丈夫になったんですよね?」
「え? ああ……そう、だな。恐らくそのはずだ」
王位を継ぐ託宣を受けた者に、守護者は代々受け継がれていく。新しい託宣者が命を結んだ今、守護者はハインリヒからその子供に移ったと言えた。それはアンネマリー以外の女性に触れたとしても、守護者が牙を剥くことはないということだ。
「なんのお話ですか、ハインリヒお兄様?」
事情を知らないピッパが、不思議そうにハインリヒに手を伸ばしてくる。その指先が触れる寸前に、ハインリヒは条件反射のように距離を取った。長年染みついた恐怖が、どうしても万が一を想像させてしまう。
「ハインリヒ」
イジドーラに名を呼ばれ、ハインリヒは強張った顔を上げた。感慨深そうに目を細め、イジドーラはためらいもなくハインリヒを抱きしめた。
「この腕にもう一度貴方を抱ける日を、心待ちにしていたわ」
「義母上……」
ハインリヒの体から力が抜けていく。震えながら、その手はイジドーラの背に回された。
――守護者の呪縛から解き放たれた
もう二度と、あの悲劇を繰り返すことはない。そのことを実感した瞬間だった。
「わあ、本当によかったですね! これでどんな女性も触りたい放題ですよ。ほら、ハインリヒ様、いつも気になる女官を目で追ってたし、これからは遠慮せずどんどん触っちゃってください」
その横でカイが朗らかに言う。感動の場面が一気に台無しとなり、心なしかアンネマリーの視線が冷たくなった。
「ば、馬鹿を言うな、カイ」
「馬鹿も何も、昔からハインリヒ様、胸の大きな女官が好きだったじゃないですか」
「なっ!? そんなことあるわけないだろう」
「そうね。ハインリヒが赤子の頃は、誰よりもジルケに懐いていたわね」
「義母上まで……! ち、違うんだ、アンネマリー」
ハインリヒ誕生の前後から、ジルケは前王妃セレスティーヌの元へと頻繁に呼ばれていたと聞く。アンネマリーの母親だけあって、なかなか豊満な胸の持ち主だ。
頬を膨らませ微妙に距離を開けたアンネマリーを、ハインリヒは慌てて抱き寄せた。
「誤解だ。そんな記憶もない赤ん坊の頃の話を持ち出されてもだな……」
唇を尖らせて顔を背けるアンネマリーを、どうにかこうにか宥めている。そんなふたりを見やり、してやったりとカイは必死に笑いを堪えていた。
「祝いの贐はそれくらいにしておやりなさい」
いたずらな笑みを刷くイジドーラに、カイは同様にいたずらな目配せを返した。
「分かってくれ、アンネマリー。わたしには君しかいないんだ。アンネマリーだけがいればいい。本当だ、信じてくれ」
必死に言葉を並べるハインリヒに、アンネマリーは根負けしたように口元に笑みを乗せた。困り果てた顔に片手を添えて、反対の頬に口づけを落とす。
「ちゃんと分かっているし、怒ってなどいないから」
「よかった……アンネマリーに嫌われたら、わたしはどうしたらいいのか分からない」
「わたくしだって、触れたいのも触れてほしいのも、ハインリヒ、あなただけよ」
「ああ、わたしもだ」
生温かい周囲の視線をよそに、ふたりきりの世界で抱きしめ合う。そんな中、ふとハインリヒの瞳に影が落ちた。
「だが……わたしには、ひとりだけ……会いに行かねばならない女性がいる」
苦し気に耳元で紡がれた言葉に、アンネマリーはシャツの背をぎゅっと握りしめた。ハインリヒが言っているのは、かつて守護者が傷つけたという令嬢――アデライーデのことだと悟る。
「すまない……」
「何があったとしても、わたくしはハインリヒと共にありますわ」
やわらかい髪に手を差し込んで、アンネマリーは労わるようにやさしく撫でた。ハインリヒの腕に力がこもる。
「ありがとう、アンネマリー……」
その後、殺人的なスケジュールの合間を縫って、ハインリヒはアデライーデを呼び出したのだった。
王妃の離宮を訪ねるなり、第三王女のピッパが飛びつくように抱き着いてきた。勢いでよろけたアンネマリーに、慌てたハインリヒがその背を支える。
「ピッパ様、王女ともあろうお方がなんと落ち着きのない」
「だってうれしいんだもの! アンネマリーに赤ちゃんができたのよ?」
「また呼び捨てなどにして。アンネマリー様は間もなく王妃殿下になられるのですよ」
「いいのよ、ルイーズ。今は公式な場でもないのだから」
ピッパを窘める女官のルイーズに、アンネマリーは穏やかな笑顔を返した。
「いいえ、ピッパ様はこれから多くの貴族の前に出る機会が増えてまいります。公私をきちんと使い分けられるならともかく、今のままでは目も当てられないことになりかねません」
「場をわきまえることくらいわたくしにだってできるわ」
不服そうに言ってピッパは優雅に淑女の礼を取る。
「アンネマリー王太子妃殿下、ご懐妊おめでとうございます。国の安泰を思うと、わたくしも王女としてよろこばしいですわ。健やかな御子の誕生を、心よりお祈り申し上げております」
「あたたかいお言葉に感謝します、ピッパ王女」
それに向けてアンネマリーも鷹揚に頷いた。
「ほら、どう? ちゃんとできるでしょう?」
ピッパが自慢げに胸を反らせたときに、カイを連れたイジドーラ王妃が姿を現した。
「アンネマリー、体調に問題はなくて?」
「はい、イジドーラお義母様。まだ実感はないのですけれど、なんだか最近やたらとお腹が空いてしまって……」
「子が欲しがっているのね。気にせず食べるといいわ」
アンネマリーの両手がそっと腹に添えられる。その上にハインリヒの手が重ねられ、ふたりはしあわせそうに微笑み合った。
「ハインリヒ様、この度は誠におめでとうございます」
「ああ、ありがとう。カイ……お前にはいろいろと気苦労をかけた」
「いいえ、すべて順調に事が運んでオレも本当にうれしく思っていますから。それでハインリヒ様は、もう女性に触れても大丈夫になったんですよね?」
「え? ああ……そう、だな。恐らくそのはずだ」
王位を継ぐ託宣を受けた者に、守護者は代々受け継がれていく。新しい託宣者が命を結んだ今、守護者はハインリヒからその子供に移ったと言えた。それはアンネマリー以外の女性に触れたとしても、守護者が牙を剥くことはないということだ。
「なんのお話ですか、ハインリヒお兄様?」
事情を知らないピッパが、不思議そうにハインリヒに手を伸ばしてくる。その指先が触れる寸前に、ハインリヒは条件反射のように距離を取った。長年染みついた恐怖が、どうしても万が一を想像させてしまう。
「ハインリヒ」
イジドーラに名を呼ばれ、ハインリヒは強張った顔を上げた。感慨深そうに目を細め、イジドーラはためらいもなくハインリヒを抱きしめた。
「この腕にもう一度貴方を抱ける日を、心待ちにしていたわ」
「義母上……」
ハインリヒの体から力が抜けていく。震えながら、その手はイジドーラの背に回された。
――守護者の呪縛から解き放たれた
もう二度と、あの悲劇を繰り返すことはない。そのことを実感した瞬間だった。
「わあ、本当によかったですね! これでどんな女性も触りたい放題ですよ。ほら、ハインリヒ様、いつも気になる女官を目で追ってたし、これからは遠慮せずどんどん触っちゃってください」
その横でカイが朗らかに言う。感動の場面が一気に台無しとなり、心なしかアンネマリーの視線が冷たくなった。
「ば、馬鹿を言うな、カイ」
「馬鹿も何も、昔からハインリヒ様、胸の大きな女官が好きだったじゃないですか」
「なっ!? そんなことあるわけないだろう」
「そうね。ハインリヒが赤子の頃は、誰よりもジルケに懐いていたわね」
「義母上まで……! ち、違うんだ、アンネマリー」
ハインリヒ誕生の前後から、ジルケは前王妃セレスティーヌの元へと頻繁に呼ばれていたと聞く。アンネマリーの母親だけあって、なかなか豊満な胸の持ち主だ。
頬を膨らませ微妙に距離を開けたアンネマリーを、ハインリヒは慌てて抱き寄せた。
「誤解だ。そんな記憶もない赤ん坊の頃の話を持ち出されてもだな……」
唇を尖らせて顔を背けるアンネマリーを、どうにかこうにか宥めている。そんなふたりを見やり、してやったりとカイは必死に笑いを堪えていた。
「祝いの贐はそれくらいにしておやりなさい」
いたずらな笑みを刷くイジドーラに、カイは同様にいたずらな目配せを返した。
「分かってくれ、アンネマリー。わたしには君しかいないんだ。アンネマリーだけがいればいい。本当だ、信じてくれ」
必死に言葉を並べるハインリヒに、アンネマリーは根負けしたように口元に笑みを乗せた。困り果てた顔に片手を添えて、反対の頬に口づけを落とす。
「ちゃんと分かっているし、怒ってなどいないから」
「よかった……アンネマリーに嫌われたら、わたしはどうしたらいいのか分からない」
「わたくしだって、触れたいのも触れてほしいのも、ハインリヒ、あなただけよ」
「ああ、わたしもだ」
生温かい周囲の視線をよそに、ふたりきりの世界で抱きしめ合う。そんな中、ふとハインリヒの瞳に影が落ちた。
「だが……わたしには、ひとりだけ……会いに行かねばならない女性がいる」
苦し気に耳元で紡がれた言葉に、アンネマリーはシャツの背をぎゅっと握りしめた。ハインリヒが言っているのは、かつて守護者が傷つけたという令嬢――アデライーデのことだと悟る。
「すまない……」
「何があったとしても、わたくしはハインリヒと共にありますわ」
やわらかい髪に手を差し込んで、アンネマリーは労わるようにやさしく撫でた。ハインリヒの腕に力がこもる。
「ありがとう、アンネマリー……」
その後、殺人的なスケジュールの合間を縫って、ハインリヒはアデライーデを呼び出したのだった。