ふたつ名の令嬢と龍の託宣
◇
「ハインリヒ様ー、お待ちかねの方がいらしてますよー」
軽いノックと共にカイが執務室に顔を出した。その後ろに騎士服姿のアデライーデがいる。強張った顔で席を立つと、アデライーデはハインリヒの前まで歩を進めてきた。
「責任を持ってハインリヒ様の骨は拾っておきますので、どうぞ心置きなく」
そんな言葉をアデライーデに残して、カイは部屋を出ていった。耳に痛い沈黙の中、アデライーデが瞳を伏せて騎士の礼を取る。
「呼び立ててすまない。本来ならわたしが赴くべきなのに……」
「いえ、王太子殿下は今大事なとき。王位を継ぐ準備のために、休む暇もなく過ごされていることでしょう。この度はアンネマリー妃殿下のご懐妊おめでとうございます。お仕えする身として至極のよろこびでございます」
「ああ、ありがとう……今は人目もない。礼は不要だ」
硬い顔のままハインリヒはアデライーデの正面に立った。アンネマリーが託宣の子供を宿した今、ハインリヒに守護者はついていない。アデライーデも呼ばれた理由は分かっているはずだ。
「今こそ、あの日の約束を果たしてほしい」
「そう……じゃあ、遠慮なく一発殴らせてもらうわ」
アデライーデは表情なくハインリヒを真っすぐに見つめた。上下にかかる傷痕が、右目の眼帯から垣間見える。
己の愚かな行いが、今なお彼女の美しい顔に刻み込まれている。ハインリヒの顔が苦しげに歪められた。
「まずはそこに膝をつきなさい」
床に向けられた指先に、頷いて両膝をつく。ハインリヒを冷たく見下げ、アデライーデは一歩前に出た。次いでぼきりと拳を鳴らす。
「覚悟はできてるわね?」
「ああ、思う存分やってくれ」
瞳を閉じた暗闇の中、ふっと笑った気配がした。
「歯を食いしばりなさい!」
空気の流れで拳が振り上げられたのが分かる。奥歯を噛みしめその時を待った。しかし一向に衝撃は来ず、ぎゅっと目をつむった状態でハインリヒはふわりと何かに包まれた。
膝をついたハインリヒの頭を、アデライーデは胸に抱いていた。その髪をやわらかく撫でていく。
「……アデライーデ?」
「ねぇ、ハインリヒ……これでもう、終わりにしましょう?」
アデライーデは囁くように言う。頭の上からする静かな声を、抱きしめられたままハインリヒはただ聞いていた。
「わたしね、今の自分が好きよ。騎士の仕事だって性に合ってるって思ってる。だけど……だけどね。だからといって、あの事があってよかっただなんて、どうあってもそんなふうに思うことはできない……」
あたたかな胸元から、アンネマリーとは違う甘い香りがする。同時に頬にあたる騎士服のボタンの冷たさに、アデライーデの置かれた立場を痛感した。
貴族女性であるアデライーデが騎士の道を選んだのは、自らが望んだわけではない。この手が彼女の未来を引きちぎった事実は、永劫、消えることはない。
ハインリヒの口から嗚咽が漏れる。間もなく王となる立場であっても、あふれ出る涙を堪えることはできなかった。
「でも……わたしたち、今まで十分傷ついて来たわ……だから、これでお終いにしていいと思うの。もういい加減、前を見て歩いていかなくちゃ。わたしはわたしにしかできないことをするわ。ハインリヒも、あなたにしかできないことがたくさんあるでしょう?」
「アデラ……イーデ……」
やさしく頭を撫でる手つきに、遠い日の記憶がよみがえる。ちょっとしたことですぐ泣く幼いハインリヒを、アデライーデはいつだってこうやって慰めてくれていた。
「もう、なんて顔してるのよ。仕方のない子ね」
やさしかった手が、いきなりハインリヒの鼻をつまみ上げた。もげそうなくらいにねじり上げられて、ハインリヒは尻もちをつきながら思わずアデライーデの体を押しやった。
「ほら、泣き止んだ」
「アデライーデ、お前な……!」
いたずらっぽく笑うアデライーデに、赤くなった鼻をさすりながら抗議の視線を送る。これも、いつまでたっても泣き止まないハインリヒが、アデライーデに何度もやられたことだ。最もあまりの痛さに、泣き止むどころか余計に大泣きさせられたハインリヒだった。
「もういいから立ちなさい」
手を引かれ、ハインリヒは立ち上がった。つないだ手のぬくもりは、今も昔も変わらない。
眩しく目を細めたハインリヒの前で、アデライーデは再び騎士の顔となった。片膝をつき、忠誠を誓うように深々と頭を垂れる。ダークブラウンの真っすぐなポニーテールが、肩口からさらりとこぼれ落ちた。
「ハインリヒ殿下……国のため、そして民のため、どうぞ良き王とおなりください」
部屋を出ていく凛とした背中を、いつまでも見送った。
姉のように。友のように。時には母のように。いつでも愛情をもって接してくれたアデライーデが、ハインリヒは大好きだった。きっと自分の初恋は彼女だったのだろう。腑に落ちたようにそんなことを思った。
「ハインリヒ……」
遠慮がちにかけられた声に、笑みを向ける。カイが気を遣って呼んだのかもしれない。手を差し伸べるとアンネマリーは、何も言わずに身を寄せてきた。
「わたしは正しき王となる。決して道を誤らぬよう、アンネマリー、わたしと共に歩んでくれるか?」
「もちろんです……そのお役目、王妃として立派に果たして見せますわ」
新年を迎えるとともに、王位継承の儀が執り行われる。その瞳に、もう、迷いはなかった。
「ハインリヒ様ー、お待ちかねの方がいらしてますよー」
軽いノックと共にカイが執務室に顔を出した。その後ろに騎士服姿のアデライーデがいる。強張った顔で席を立つと、アデライーデはハインリヒの前まで歩を進めてきた。
「責任を持ってハインリヒ様の骨は拾っておきますので、どうぞ心置きなく」
そんな言葉をアデライーデに残して、カイは部屋を出ていった。耳に痛い沈黙の中、アデライーデが瞳を伏せて騎士の礼を取る。
「呼び立ててすまない。本来ならわたしが赴くべきなのに……」
「いえ、王太子殿下は今大事なとき。王位を継ぐ準備のために、休む暇もなく過ごされていることでしょう。この度はアンネマリー妃殿下のご懐妊おめでとうございます。お仕えする身として至極のよろこびでございます」
「ああ、ありがとう……今は人目もない。礼は不要だ」
硬い顔のままハインリヒはアデライーデの正面に立った。アンネマリーが託宣の子供を宿した今、ハインリヒに守護者はついていない。アデライーデも呼ばれた理由は分かっているはずだ。
「今こそ、あの日の約束を果たしてほしい」
「そう……じゃあ、遠慮なく一発殴らせてもらうわ」
アデライーデは表情なくハインリヒを真っすぐに見つめた。上下にかかる傷痕が、右目の眼帯から垣間見える。
己の愚かな行いが、今なお彼女の美しい顔に刻み込まれている。ハインリヒの顔が苦しげに歪められた。
「まずはそこに膝をつきなさい」
床に向けられた指先に、頷いて両膝をつく。ハインリヒを冷たく見下げ、アデライーデは一歩前に出た。次いでぼきりと拳を鳴らす。
「覚悟はできてるわね?」
「ああ、思う存分やってくれ」
瞳を閉じた暗闇の中、ふっと笑った気配がした。
「歯を食いしばりなさい!」
空気の流れで拳が振り上げられたのが分かる。奥歯を噛みしめその時を待った。しかし一向に衝撃は来ず、ぎゅっと目をつむった状態でハインリヒはふわりと何かに包まれた。
膝をついたハインリヒの頭を、アデライーデは胸に抱いていた。その髪をやわらかく撫でていく。
「……アデライーデ?」
「ねぇ、ハインリヒ……これでもう、終わりにしましょう?」
アデライーデは囁くように言う。頭の上からする静かな声を、抱きしめられたままハインリヒはただ聞いていた。
「わたしね、今の自分が好きよ。騎士の仕事だって性に合ってるって思ってる。だけど……だけどね。だからといって、あの事があってよかっただなんて、どうあってもそんなふうに思うことはできない……」
あたたかな胸元から、アンネマリーとは違う甘い香りがする。同時に頬にあたる騎士服のボタンの冷たさに、アデライーデの置かれた立場を痛感した。
貴族女性であるアデライーデが騎士の道を選んだのは、自らが望んだわけではない。この手が彼女の未来を引きちぎった事実は、永劫、消えることはない。
ハインリヒの口から嗚咽が漏れる。間もなく王となる立場であっても、あふれ出る涙を堪えることはできなかった。
「でも……わたしたち、今まで十分傷ついて来たわ……だから、これでお終いにしていいと思うの。もういい加減、前を見て歩いていかなくちゃ。わたしはわたしにしかできないことをするわ。ハインリヒも、あなたにしかできないことがたくさんあるでしょう?」
「アデラ……イーデ……」
やさしく頭を撫でる手つきに、遠い日の記憶がよみがえる。ちょっとしたことですぐ泣く幼いハインリヒを、アデライーデはいつだってこうやって慰めてくれていた。
「もう、なんて顔してるのよ。仕方のない子ね」
やさしかった手が、いきなりハインリヒの鼻をつまみ上げた。もげそうなくらいにねじり上げられて、ハインリヒは尻もちをつきながら思わずアデライーデの体を押しやった。
「ほら、泣き止んだ」
「アデライーデ、お前な……!」
いたずらっぽく笑うアデライーデに、赤くなった鼻をさすりながら抗議の視線を送る。これも、いつまでたっても泣き止まないハインリヒが、アデライーデに何度もやられたことだ。最もあまりの痛さに、泣き止むどころか余計に大泣きさせられたハインリヒだった。
「もういいから立ちなさい」
手を引かれ、ハインリヒは立ち上がった。つないだ手のぬくもりは、今も昔も変わらない。
眩しく目を細めたハインリヒの前で、アデライーデは再び騎士の顔となった。片膝をつき、忠誠を誓うように深々と頭を垂れる。ダークブラウンの真っすぐなポニーテールが、肩口からさらりとこぼれ落ちた。
「ハインリヒ殿下……国のため、そして民のため、どうぞ良き王とおなりください」
部屋を出ていく凛とした背中を、いつまでも見送った。
姉のように。友のように。時には母のように。いつでも愛情をもって接してくれたアデライーデが、ハインリヒは大好きだった。きっと自分の初恋は彼女だったのだろう。腑に落ちたようにそんなことを思った。
「ハインリヒ……」
遠慮がちにかけられた声に、笑みを向ける。カイが気を遣って呼んだのかもしれない。手を差し伸べるとアンネマリーは、何も言わずに身を寄せてきた。
「わたしは正しき王となる。決して道を誤らぬよう、アンネマリー、わたしと共に歩んでくれるか?」
「もちろんです……そのお役目、王妃として立派に果たして見せますわ」
新年を迎えるとともに、王位継承の儀が執り行われる。その瞳に、もう、迷いはなかった。