ふたつ名の令嬢と龍の託宣
【第3話 王の采配】
上座のひじ掛けで頬杖をつきながら、ハインリヒはしかめ面で瞼を閉じていた。頭の中、歴代の王たちの無秩序な声が反響する。興の乗った夜会よりも、手のつけられない馬鹿騒ぎだ。
薄く目を開いた先では、ひとりの貴族が糾弾されている。あの男は以前から悪政を続けていた伯爵だ。再三にわたる勧告にも上辺だけ応じるのみで、領民から税を搾取し放蕩の限りを尽くしていた。
(大方、財政がひっ迫して、何か悪どいことをやらかしたのだろうな)
憶測なのは議会の会話が何も聞こえないからだ。王たちの記憶がうるさすぎて、繰り返される詰問は、一向にこの耳には届いてこない。
ブラル宰相が不正の数々を挙げ連ねていく。ああいった場面は、王太子時代に幾度も目にしてきた。聞こえずとも流れなどは、容易に推測できるというものだ。いよいよ悪事を隠しおおせられなくなって、伯爵は今ここに立たされているのだろう。
だが罪状を言い渡そうにも、ハインリヒに判断することは不可能だ。なにしろ本当に何も聞こえないのだから。
(こんなにも長い期間、放置していたから問題が大きくなるんだ……)
父の代で適切な対処をしていれば、いたずらに領民が苦しむこともなかったはずだ。王太子であった頃はそう思っていたものの、いざ王の立場になって理解ができた。ディートリヒは対処しなかったのではなく、対処のしようがなかったということを。
――そうじゃそうじゃ、考えても無駄なこと!
――王冠などただの飾りに過ぎぬ!
――我ら王に決定権などない。国の歴史を見守るだけだ!
王たちが口々に言う。中でもひとり甲高い笑いを発する王がいて、それがたまらなく気に障った。考える気力もとうに消え失せ、この状況がずっと続くのだと思うと気が滅入って仕方がない。
この国の王の戴冠は概ね十六、七歳で行われ、平均在位は十八年だ。動乱の世ならともかくも、平和な国にしてみれば、若すぎる王な上、早すぎる退位と言えるだろう。王座に執着を見せることもなく、王太子に託宣の子ができればみな即座に退位する。ハインリヒとて絶対にそうするはずだ。その日が来ればこの異常事態から、きれいさっぱり解放されるのだから。
しかしハインリヒの跡継ぎは、いまだアンネマリーのお腹の中だ。順調にいったとしても、その子が王位を引き継げるのは、あと十六年はかかる見積りだった。
(長くて三十年かかった王もいると聞く……)
これは何の拷問だろうか? 王太子時代の苦悩も葛藤も、この胸に誓った決意ですら、今では陳腐な喜劇に思えてくる。
――当代の王よ、そろそろ顔を上げた方が良いぞ
この声は中でもまともな助言をくれる王だ。そう思いハインリヒは意識を評議場に戻した。みながこちらに注目している。じっと押し黙り、何かを待っているようだ。
自分に意見を求めているのだ。それが分かりハインリヒは再び目を閉じた。誰ももったいぶっているわけではない。何と返答したものか、考えあぐねているだけのことだった。
この奇妙な空白の間も、貴族たちの目には王の威厳と映っているらしい。それがせめてもの救いだが、これまで押し殺してきたため息は数知れない。
――まずは領民の生活を最優先に!
――屋敷の雇用は継続じゃ!
――適切な監督人は宰相に選ばせよ!
頭の中の王たちが矢継ぎ早に伝えてくる。こういったとき、うるさいおしゃべりも控えめになった。しゃべらずにいられるというのなら、ずっと口をつぐんでいてほしいものだ。
「まずは領民の生活を最優先にして事を進めるように。伯爵家の雇用は継続し、いかなる者も不当に解雇してはならない。不正を精査するにあたって監督人を伯爵家に遣わせること。人選は宰相に任せる。適切な者を選ぶといい。罪状を決めるのはすべてが明るみに出てからだ」
評議場を見回して、ハインリヒは重い声を響かせた。どの貴族も納得顔だ。内心は盛大に安堵して、何食わぬ顔で豪奢な椅子から立ち上がる。
「宰相、あとは任せた」
「仰せのままに、ハインリヒ王」
物々しい雰囲気の中、ハインリヒは悠然と評議場を後にした。
薄く目を開いた先では、ひとりの貴族が糾弾されている。あの男は以前から悪政を続けていた伯爵だ。再三にわたる勧告にも上辺だけ応じるのみで、領民から税を搾取し放蕩の限りを尽くしていた。
(大方、財政がひっ迫して、何か悪どいことをやらかしたのだろうな)
憶測なのは議会の会話が何も聞こえないからだ。王たちの記憶がうるさすぎて、繰り返される詰問は、一向にこの耳には届いてこない。
ブラル宰相が不正の数々を挙げ連ねていく。ああいった場面は、王太子時代に幾度も目にしてきた。聞こえずとも流れなどは、容易に推測できるというものだ。いよいよ悪事を隠しおおせられなくなって、伯爵は今ここに立たされているのだろう。
だが罪状を言い渡そうにも、ハインリヒに判断することは不可能だ。なにしろ本当に何も聞こえないのだから。
(こんなにも長い期間、放置していたから問題が大きくなるんだ……)
父の代で適切な対処をしていれば、いたずらに領民が苦しむこともなかったはずだ。王太子であった頃はそう思っていたものの、いざ王の立場になって理解ができた。ディートリヒは対処しなかったのではなく、対処のしようがなかったということを。
――そうじゃそうじゃ、考えても無駄なこと!
――王冠などただの飾りに過ぎぬ!
――我ら王に決定権などない。国の歴史を見守るだけだ!
王たちが口々に言う。中でもひとり甲高い笑いを発する王がいて、それがたまらなく気に障った。考える気力もとうに消え失せ、この状況がずっと続くのだと思うと気が滅入って仕方がない。
この国の王の戴冠は概ね十六、七歳で行われ、平均在位は十八年だ。動乱の世ならともかくも、平和な国にしてみれば、若すぎる王な上、早すぎる退位と言えるだろう。王座に執着を見せることもなく、王太子に託宣の子ができればみな即座に退位する。ハインリヒとて絶対にそうするはずだ。その日が来ればこの異常事態から、きれいさっぱり解放されるのだから。
しかしハインリヒの跡継ぎは、いまだアンネマリーのお腹の中だ。順調にいったとしても、その子が王位を引き継げるのは、あと十六年はかかる見積りだった。
(長くて三十年かかった王もいると聞く……)
これは何の拷問だろうか? 王太子時代の苦悩も葛藤も、この胸に誓った決意ですら、今では陳腐な喜劇に思えてくる。
――当代の王よ、そろそろ顔を上げた方が良いぞ
この声は中でもまともな助言をくれる王だ。そう思いハインリヒは意識を評議場に戻した。みながこちらに注目している。じっと押し黙り、何かを待っているようだ。
自分に意見を求めているのだ。それが分かりハインリヒは再び目を閉じた。誰ももったいぶっているわけではない。何と返答したものか、考えあぐねているだけのことだった。
この奇妙な空白の間も、貴族たちの目には王の威厳と映っているらしい。それがせめてもの救いだが、これまで押し殺してきたため息は数知れない。
――まずは領民の生活を最優先に!
――屋敷の雇用は継続じゃ!
――適切な監督人は宰相に選ばせよ!
頭の中の王たちが矢継ぎ早に伝えてくる。こういったとき、うるさいおしゃべりも控えめになった。しゃべらずにいられるというのなら、ずっと口をつぐんでいてほしいものだ。
「まずは領民の生活を最優先にして事を進めるように。伯爵家の雇用は継続し、いかなる者も不当に解雇してはならない。不正を精査するにあたって監督人を伯爵家に遣わせること。人選は宰相に任せる。適切な者を選ぶといい。罪状を決めるのはすべてが明るみに出てからだ」
評議場を見回して、ハインリヒは重い声を響かせた。どの貴族も納得顔だ。内心は盛大に安堵して、何食わぬ顔で豪奢な椅子から立ち上がる。
「宰相、あとは任せた」
「仰せのままに、ハインリヒ王」
物々しい雰囲気の中、ハインリヒは悠然と評議場を後にした。