下弦の月
いつもの料亭の個室に、二人きりの空間。





今日は、妙な胸騒ぎが声を掛けられた時からしたから。




栞ちゃんを巻き込むわけには、いかなかった。





お昼に社食の端で、部長の事はタイムスリップの話だけは抜いて、




栞ちゃんには話したばかりだった。





今の事は絶対に言わないように口止めした。




部長のことだから、私じゃなくても必ず事態をわかれば来るのはわかっていたから。




とんぼ返りというスケジュールで疲れているはずだし、




心配はかけられない。









「君は、僕の好みなんだよ。顔は綺麗だしスタイルもいい。」





そう、厭らしい目付きで私を見る30代半ばらしい院長。




先代の院長が早くに亡くなったため、



この年齢で院長になったらしい。






「ありがとうございます、どうぞ…もう一杯。」





グラスが空くとまた、ビールを注ぐ。




早々に酔い潰して、帰ろう作戦は凶と出るか吉と出るか……







「酔い潰して帰ろうとしても無駄だよ。」





不適な笑みを浮かべた院長に腕を掴まれて、



私の身体は畳に縫い付けられてしまった。




両腕を抑えられて、押し返すことも出来ない。




両足も院長の身体が乗っているため、蹴り飛ばす事は出来ない。






ふと、頭に部長の言葉が浮かんだ。





『もっと頼れよ』






心配かけたくないと、報告もせずに。



栞ちゃんにも口止めしたのに。






口を唇で塞がれて、




声を出せない代わりに、




柊輔さん、柊輔さん……





心で、部長ではなく…昨日だけ呼んだ名前を叫び続けていた。





凶と出た結果だけど、ドラマやアニメなら、ここで登場して助けてくれる。



だけど、そんな展開があるわけがないと……





腹を括った。
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