町娘は王子様に恋をする

07

 なんだかとても、ギリギリというか終末感さえ漂う就活だったな、と今思い出しても自分の歩き出す遅さにドン引いてしまう。そうして、この会社は、よくぞや私をお祈りで突き放さなかったな、とも。
 思えば、卒業してから、羽柴先輩と会うこともなくなるかと思っていたがそうはならなかったと沁みじみ思う。むしろそれがありがたかった、といえばどれだけ「あの先輩の忠犬か……」と憐れまれることだろう。先輩にパシリにされたり良いように使われたりはしていないつもりだが。
 そう、私のように大学でかかわりのあった人間は、今の羽柴先輩の回りには数人しかいない。そもそもそれ程の付き合いだったという事かもしれないと、私ももしかしたらそうだったかもしれないのにと勝手に考えて怯えて、そうして自分がそうならなかった事にどこかほっとしている。
 先輩からすれば、ただの後輩であり、よく勉強をみてやった、程度の印象しかないだろうとは思っているけれど。それでも、社会に出てからも連絡をくれて、たまにご飯に連れ出してくれた先輩には感謝してもしきれない。


「宇佐見、戸締りするから先出てて」
「あ! はい!」

 ばつの悪さを誤魔化す様に、羽柴先輩が私を急かした。先輩はまだデスクの辺りで何かゴソゴソしているのが引っかかる。

「何してるんですか?」
「ちょっと、落とした……」

 フロアの蛍光灯のスイッチのところまで来て、スイッチに手を掛けて振り返ると羽柴先輩の姿がない。鞄がデスクの上で立っているからおそらく屈んでいるのだ。
 ちょっと爪先立ちをして覗いてみると、紺色のスーツの背が見える。全くもって何をしているのだか。
 常時しっかりしている姿を見せているけれど、プライベートでは相変わらずどこか抜けているところがある。
 しっかりもので、仕事ができて、社内外共に評判は良くて、営業成績も悪くない。大学の時にもへらへらとしたところはあるとは思っていたし、王子様(笑)の異名が囁かれるくらいに容姿はよかったし、彼女がころころ変わる姿勢は全くもってどうかと思っていたけれど、羽柴先輩が人気であることは今も変わらない。

「宇佐見探してー」
「はい?」
「まるいやつ」
「何落としたんですか」
「まるいやつ」
「まるいやつ!!」

 ちょっとすっとぼけたことも時々するから、放っておけない。この辺りのギャップについていけるかどうかも、羽柴先輩に好意を抱く人間が篩にかかる理由だ。
 私はドアから戻って先輩の席の向かい側、自分の席にいって鞄を置き隣のデスクの椅子を引いてそこへ屈んだ。黒い丸いものが落ちていて、拾い上げるとそれは単なる磁石だと分かる。プラスチックがついているそれは、出張や外出の時にホワイトボードに掲示しておく用のもので羽柴先輩の苗字が印字されたシールが貼ってある。

「ただの磁石!!」
「そうそれ」
「明日で良かったですよ明日で!」
「明日じゃ忘れてるだろう!」

 記憶力の問題です。机にメモでも貼っておけばいいのに、とぶつくさ言いながら這い出てデスクの上から手を伸ばしてきた先輩に手渡す。

「どうも」

 言って先輩は丸い磁石を取らずに私の手をぎゅっと握った。ぎゅう、とちょっとずつ力が込められて、その行動の意味合いが分からずに眉間にしわを寄せてしまった。少し、痛いです。

「なんですか」
「なんとなく」

 羽柴先輩はパッと放して磁石を取って引き出しに仕舞った。引き出しに本来あるものがどうして、と不思議に思いつつも私は先輩に握られた手に反対の手で触れた。もやもやとする感情が、自分の中でぐるぐると廻っているのが分かる。

「帰ろう」
「……はい」

 改めて言われてはっとなり、椅子を戻しておいた鞄を手に取った。
 大学の頃は、もう少し多かったスキンシップも社会人になってめっきりなくなった。それが普通の事だし、以前の方が距離感にバグがあったのだろうということも分るけれど。
 入り口まで来て立ち止まる、私を不思議がって先輩が覗き込んだ。

「宇佐見?」

 ひゃい、と変な声をだして半歩下がる。まともに顔をみることが、できない。

「なんでもないです」
「そう?」
「はい」
「……なら帰るかー」

 覗き込まれたことも、過去に何度もあったのに。心臓が、早鐘を打って忙しく動いているのが分かる。慌てて出ると羽柴先輩がドアを閉めた。
 手をぎゅっと握られた、それだけでこんなにもドキドキとしている。
 勘違いを誘うのが本当に上手だと心の中で笑い飛ばしてしまおう。あーっはっはっはー!
 ぽつぽつと、なるべくさっきの事は思い出さないようにして会話しながら廊下を歩いてエレベーターに乗る。この会社では残業する際先にフロアの使用申請をしておかなければならない。みんな大目に時間を見積もって申請するけれど早く帰る事が多い。そうして、帰りはフロアの戸締りが任されて、鍵は裏口で返却して記録を残さなければならない。
 羽柴先輩が裏口の守衛さんに鍵を渡していた。小窓の中に、お疲れ様です、と声をかけて会社を出た。
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