白衣とブラックチョコレート
藤村翔太と、あまり好印象とは言えない挨拶を交わしてから三日後。

「よし、予習はバッチリだな」

勉強の方は何とか恭平から合格点をもらった。カルテも一通り網羅したところで、雛子はようやくサブプライマリーとして再び翔太と顔合わせを行うことになった。

「失礼します」

一呼吸置いて、雛子は恭平と共に翔太の病室へ入る。ベッドの上から、翔太の警戒するような視線が向けられる。

「改めまして、これから桜井さんと一緒に翔太君を担当することになった雨宮雛子です。よろしくね」

「……」

やはり翔太から返事はない。ここまでは想定済みだ。雛子は室内を見渡す。

個室に備え付けのテレビにはテレビゲーム機が接続され、その脇の床頭台にはサッカーボールが一つ乗っている。感染予防の目的で持ち込めるものが制限されている中、ゲームとサッカーが彼の唯一の楽しみなのだろう。

「サッカー好きなの?」

雛子は会話のきっかけを作ろうと、翔太の食いつきそうな話題を振る。

「まぁ……」

(よし!)

想定内の返事が来たことに、雛子は心の中でガッツポーズをする。

「へぇ、そうなんだ! サッカーって難しいんだよね〜。私も子どもの頃体育の授業でやったけど、ルールもよく覚えられなくて……」

「……」

今度は返事の代わりに、心底馬鹿にしたような瞳で見つめられた。

「とにかく翔太、今後はこいつと関わることが多くなると思うからよろしくな」

しゃがんだ恭平が翔太の顔をのぞき込むと、彼は仕方なさそうに頷く。

「よし。……と、リーダーから電話。俺行くから、あとよろしく」

恭平が退室し、雛子と翔太は二人きりになる。

「あ、桜井さん行っちゃったね。とりあえず、検温させてね」

「……」

まずはやるべきことをやろう。そう思い体温計を脇に挟もうとするも、それは翔太の手によって奪われる。翔太は黙って自分の脇に体温計を挟む。

「……はい、じゃあ次は血圧ね」

脈を取り、続いて血圧計のマンシェットを翔太の腕に巻く。

「えーっと、体調はどう?」

「普通」

「そう……。夜は眠れたかな?」

「まぁ」

「朝ごはん食べられた?」

「多少は」

「……」

「……」

(うーん……と? どうしよう……)

業務上必要な事は質問すれば一応返答があるものの、そこから話が盛り上がるわけでもない。

「……」

どうしたものかとカルテを打ち込みながらちらりと翔太を盗み見る。その時、彼が何かドアの方を忙しなく見ていることに気付いた。

「……どうしたの?」

「……別に」

そうは言うものの、彼はそわそわと落ち着かない様子だ。雛子は彼の視線の先を追い、すぐにその答えに合点がいく。

「あ、もしかしてトイレ?」

「……」

視線は出入口ドアの横にある個室用のトイレを向いていた。無言で、しかし彼は遠慮がちに小さく頷く。

(翔太君、今血小板低くてトイレは付き添いなんだよね……)

恭平は呼び出されていたから、恐らく手が離せないだろう。仮に用事が済んでいたとしても、先程から我慢しているらしい翔太をさらに待たせることになる。

「うん、それじゃトイレまで歩こうか。私が付き添うね」

「……」

少しだけ顔を赤くして俯きながらもベッドから降りる翔太に、雛子は申し訳ない気持ちになる。

「……ちっさ」

「……翔太くんおっきいね」

立ち上がった瞬間、見下され馬鹿にされる。ベッドに寝ている時は分からなかったが、並んで立つと翔太の方が背が高い。

十五歳の男子ともなれば、もはやサイズは大人と一緒だ。

「い、いこっか……」

付き添いとはいえトイレは病室内にあるため、たった二メートル程の距離だ。気まずさからか、その短い距離が長く感じた。

「なんかごめんね、私なんかで……」

「いや、別に……」

8Aには男性スタッフは恭平しかいない。今までも他のスタッフに付き添われたことはあるだろうし、不服と思いながらもそこは心得ているのだろう。

雛子はトイレのドアを開け、点滴のルートが絡まないよう注意しながら中に誘導する。

「あっ! み、見ないからねっ!」

「当たり前だ! ズボン下げるところまで見守らなくて良いよっ!」

あ、突っ込まれた。

そう思った時には内側からトイレのドアを閉められていた。ちょうどその時、雛子のピッチが和やかなクラシックを流す。

表示されたのは、受け持ちの舞の部屋番号だ。

「はい、どうされました?」

『あぁ、あんたなの? ちょうど良かったわ。水と氷枕ちょーだい。今すぐ!』

「は、はいっ」

かなり横柄な物言いだが、雛子は二つ返事でOKしてピッチを切る。

この前の一件はクレームとして訴えられることはなかったものの、あれ以降、舞はことあることに雛子に用事を言いつけてはああだこうだと文句を言ってくるのだった。

雛子はトイレのドアに向かって声をかける。

「翔太君、トイレ終わったら中のナースコールで呼んでね」

「まだいたのかよ! 待機されてたら出るもんも出ないだろ! さっさと行けよ!」

「はいはい〜」

また突っ込まれてしまった。

雛子は水と氷枕を取りにステーションへ戻ろうと、病室のドアを開ける。

と、ちょうどこちらに入ってこようとしていた人物とぶつかりそうになる。

「あっ……ごめんなさい」

その女性に謝られ、雛子も慌てて頭を下げる。

「いえっ! こちらこそすみません!」

女性は気持ち程度に口角を上げてはいたが、疲れたような表情は隠しきれていない。

彼女、藤村翔太の母親は、病棟で何度となく見かけたことがあった。

「お母さん、初めまして。今日から翔太くんの副担当看護師として付かせていただくことになった、雨宮雛子と言います」

「……あなたが?」

挨拶をする雛子に、母親は訝しげな表情を向けた。彼女は大抵かっちりとしたパンツスーツにパンプスという出で立ちで、キリリと書かれた眉と相まってややキツい印象を受ける。

「たしか今年入った新人さんよね……? まぁ、よろしくお願いします」

「お、お願いします」

(うっ……絶対不審がられてる……)

はっきりとは言わないものの、微かに滲み出る拒絶の態度。雛子は少しだけ怯みそうになる。

「あら、翔太は……?」

ベッドにいない息子に気付き、母親は少し不安げに当たりを見回す。

「あっ、今トイレに……」

「ああ、私が戻しておくので良いですよ。ありがとうございます」

ここは素直にお願いした方が良いだろう。そう判断し、雛子は一礼して病室を後にする。

そしてすぐに水と氷枕を用意し、舞の元へと駆けつけた。


「遅い」

開口一番、不機嫌そうな声音で叱責される。

「す、すみません……他の患者さんの対応を……」

「言い訳するな」

オーバーテーブルに頬杖を付き雑誌を捲りながら、舞はピシャリと雛子の言葉を捩じ伏せる。

(もぉ〜! 私は召使いじゃないんですけどっ!)

心ではそう思うものの、顔は一応申し訳なさそうに眉を八の字にしておく。

この前の一件を見逃してもらったこともあり、これ以上舞の機嫌を損ねない方が身のためなのだ。

そんな忖度をしながら、氷枕を取り替えて水を手渡す。彼女はおもむろにコップに口を付け、顔を顰めた。

「うぅ……喉痛い……」

舞の病気は、周期的に扁桃炎を起こして高熱が出るという疾患である。喉の痛みで食事や水分が取れなくなるため入院する場合もあるが、熱の割には患者が元気な事も多い。

舞の場合は月に一回、長くても三ヶ月に一回は高熱で入退院を繰り返している。

「桜井さんに会いたいとか言ってないで、手術すれば良いのに」

この疾患は、扁桃の摘出手術を受けることで治すことが出来る。雛子の尤もな呟きに対し、舞は忌々しそうに舌打ちをした。

「言ったでしょ。食事が取れないくらいで他は元気なの。手術なんてする必要ないわよ」

そしてまた一口、コップに口をつける度、痛みに顔を顰める舞。

「でも水を飲むだけでそんなに痛そうなのに……。あ、桜井さんに会えなくなる以外に、何か理由があるんですか?」

「あんたには関係ないでしょ」

「は、はい……」

そう素っ気なく返され、雛子はしばし考える。

(別に手術のリスクになるような持病もなかったはずだけど……)

過去のカルテを思い出してみるも、手術に関する記載はほとんどなかったはずだ。あったとしても「手術を勧めるも拒否」の一文が時々見られるのみだった。

「あ、もしかして怖いとか?」

「ぶっ……!」

唐突な雛子の質問に、舞は思わず水を吹き出す。直後、バンッ!という音に雛子の身体がびくりと揺れる。舞が両掌でオーバーテーブルを叩き付けた音だった。

「ばっかじゃないの!? このまな板女!」

「そ、それは今関係ないですっ!」

ふん、と鼻を鳴らしそっぽを向く舞。雛子は彼女の不貞腐れたような横顔を見つめた。

(気のせいかな……今一瞬、視線を逸らされたような……)

その時、険悪な雰囲気など無視して流れたのは和やかなクラシック。雛子はこれ幸いとばかりに通話ボタンを押す。

「はい、今すぐ! 行きます!」

部屋番号は受持ち患者のそれではなかったが、とにかく今はこの場から逃れる絶好のチャンスだ。

「篠原さんごめんなさい! 呼ばれたのでもう行きますね!」

「あ、ちょっと!」

雛子は逃げるように部屋を去る。

「あの子……ほんっとにムカつく……」

舌打ちをして、舞はまた水を一口こくりと飲んだ。









その後雛子に待っていた報復は、怒涛のナースコール連打という仕打ちだった。

三十分に一回は舞から部屋に来るよう指名され、雛子は何十回とステーションと舞の部屋を往復した。

やっと夜勤との勤務交代時間になり、雛子にとって地獄の一日がようやく終わろうとしていた。

「うぅ……つ、疲れた……」

パンパンになったふくらはぎを擦りながら、ステーションの奥で項垂れる雛子。もちろん記録など殆ど終わっていない。

勤務が夜勤に切り替わった途端、嵐のようなナースコールはピタリと止んでいた。

「お疲れ雨ちゃーん」

「お疲れ様です……」

一学年先輩の原と水嶋が、雛子の肩をポンと叩いて本日の労をねぎらう。

「雨ちゃん大丈夫? なんか間違えて乾燥までかけちゃってシワシワになったTシャツみたいになってるけど」

「いやいや、これは肥料を与えすぎて枯れてしまった朝顔のような」

「例えが独特……何ですかそれ」

二人の物言いに、雛子は疲れも忘れて思わず突っ込む。水嶋が笑いながら再び雛子の肩を叩く。

「いや〜何かさ〜。周りからの過度な圧力で押しつぶされてるんじゃないかなって」

「翔太君と篠原さんを持たせるなんて、桜井さんも中々にサディストだよねぇ」

「え?」

顔を寄せて小声でそう宣う原に、水嶋はうんうんと頷く。

「雨ちゃん気付いてなかったの? だってターミナルとクレーマーだよ? 今日だって全然記録終わってないじゃん。篠原さんは言わずもがな、翔太君のところは本人も親もピリピリしてるしさ……うちらでもまだ難しいのに、新人に振る仕事じゃないよ」

「そ、そうなんですか?」

そう言われてみれば、そうなのかもしれない。昼間会った翔太の母親の怪訝な表情を思い出す。

しかし裏を返せば恭平に期待されているのだと思うと、何だか嬉しい気持ちにさえなるから我ながら現金なやつだ。

「ま、とにかく頑張るしかなーい! じゃあお疲れ〜」

「えっ! もう帰るんですか!?」

はっとして時計を見ると、すでに定時を一時間以上過ぎていた。ステーションから出ていく二人と入れ違いに、今度は恭平がやってくる。

「ひなっちそろそろ終わるー?」

のんびりした口調で聞いてくる恭平に、雛子は申し訳ない気持ちになる。

「すみません桜井さん……まだ全然終わりません〜……」

彼は基本的に、定時前に全ての仕事を終わらせている。大抵はすぐに退勤してしまうものの、時々気が向いた時だけこうして雛子の業務が終わるのを待っていてくれる事もある。

「だろうなー。頑張れあと三日。そんだけあれば、一先ず舞は退院するはずだから」

「長いです……」

「そして定期的に来るけどな」

「はぅ……」

項垂れる雛子に、恭平が追い打ちをかける。恭平は小さく笑った後、「ところで」と少しだけ真剣な顔をした。

「翔太とはどう?」

恭平の問いに、雛子は複雑な表情を浮かべる。

「正直、どう関わればいいのか難しいですね……なんか、意識すればするほど腫れ物に触るようになっている気がして……。でもそれも違う気がするし……それ以前に、思春期の男の子とどう接すれば良いのやらでして……」

雛子の言葉に、恭平は黙って耳を傾ける。雛子は意を決して、先程原と水嶋が述べていたことを口にする。

「どうして私に、翔太くんを付けたんですか? 先輩でもまだ難しいって仰っていました。桜井さんは、どんな考えがあって私に翔太くんを……」

真っ直ぐ見つめる雛子の視線と恭平の視線がぶつかる。しばし見つめ合ったあと、恭平がふと口元を緩めた。

「ひなっちはまだ、染まってないだろ」

「えっ?」

恭平の返答の意味が分からず、雛子はきょとんと首を傾げた。

「看護師として、染まっていない。そういう関わりが、翔太には必要なんだよ」

恭平のいつになく真面目な言葉に、雛子はぎゅっと拳を握り締めた。

「私に、できるんでしょうか……」

恭平の期待に応えたい。翔太に向き合いたい。雛子の問いは、半分は自分に向けられたものだった。

「できると思って、任せてる」

それは静かな声だったが、雛子の胸にゆっくりと染みた。雛子は破顔して、ぺこりと頭を下げる。

「頑張ります! ありがとうございます!」

看護師として、染まっていない対応。

それがどういうものなのか具体的にはよく分かっていなかったが、この病棟で唯一それができるのは新人の自分しかいない。漠然とそう思えた。

(よし! とにかくやるしかない!)

雛子はカルテに入力し終わった尿測板を胸に抱き、すくっと立ち上がる。

尿測板(これ)返してきます!」

「おう」

さっきまでのげっそりした雛子はどこにもなく、軽い足取りでステーションを後にする。

やがて奥の部屋まで尿測板を戻し、ステーションへ帰る途中で雛子はサブステーションの前を通りかかる。

「……」

ここには嫌な思い出がある。この前の夜勤中、見えないものが見えたような、見えていないような……。

ガチャ────。

「……っ!」

そして、また。

視界の端には、ラックに整頓された折りたたみ椅子。それが何者かによって、ぶつかり合い不快な金属音を鳴らす。

雛子はギギギ……とぎこちない動きで、顔全体をそちらに向ける。

(ううっ……また……)

ドキンドキンと、心臓が高鳴る。雛子はゴクリと唾を飲む。幸いにも、今はまだ消灯前で廊下は明るい。

恐怖ももちろんあったが、それ以上に好奇心が勝った。

(大丈夫、きっと何もいない……)

そう言い聞かせながら、気配を殺してゆっくりとラックに近付き────。

「……っ!!?」

「っ……!!」

心臓が止まるかと思ったが、それは相手も同様のようだった。

「えっ……あっ……さ、さっちゃん??」

「……」

やっとの思いで、雛子はそう口にした。

目の前にいたのは、幽霊でも何でもない。長くて真っ直ぐな黒髪を二つ結びにした、気の強そうなつり目の少女。

池野幸子。

当院の耳鼻科医である、池野医師の溺愛する愛娘である。幸子は五歳の保育園児でありしょっちゅう風邪を引いているが、両親は多忙でなかなか仕事を休むことができない。

そこで池野が自分の勤務先であるのをいいことに、幸子が少しでも風邪を引くとこの病棟に入院させる。つまり実際は入院させる程重症な訳ではないが、“レスパイト”として預けられているのだ。

「何だ、さっちゃんかぁ……何やってるの、こんなところで?」

幽霊の正体見たり枯れ尾花。相手が幸子と分かり、雛子は安堵の息を吐く。緊張で強ばっていた身体から一気に力が抜けた。

一方の幸子も、大きな目を一層大きくして驚いた様子を見せていたが、すぐにブスっとした膨れっ面になる。

割とこの表情が、少女にとってのデフォルトだったりする。

「……今日の夜勤は真理亜お姉ちゃんだから、見てただけだ」

「えっ?」

ぼそりと不貞腐れたように呟いた言葉は、意外なものに思えた。

ふとサブステーション横の個室に目をやると、中では真理亜が患者の検温を行っていた。その美しい微笑みは、まさに白衣の天使、リアル「マリア様」である。あの笑顔に励まされている患者も多いことだろう。

「何だそういうこと……真理亜さん綺麗だもんねぇ。あ、もしかしてこの前の夜も?」

「……」

一瞬の間のあと幸子がこくんと頷いたことで、ようやく点と点が繋がる。幸子の方も、ここで雛子に見つかりそうになった自覚があったのだろう。

「もう〜びっくりしたんだから〜。そろそろ夕ご飯の時間だし、早くお部屋に戻るんだよ?」

「……」

ブスっとした表情のまま、幸子がまたこくんと頷く。

「ひなっち〜何やってんの〜?」

あまりにも戻るのが遅いのを心配してか、廊下の向こうから恭平が声を掛ける。

「あ、いえ! 何でもないです!」

恭平に返事をして、雛子は少女に合わせて屈んでいた体勢から立ち上がる。

「じゃあ、早く戻るんだよ? また明日ね!」

「あっ……」

「ん? なに?」

幸子が何か言いかけた気がして、雛子はナースステーションに向きかけていた足を止める。

「……何でもない」

「?? あ、走っちゃダメだよ!」

それだけ言うと、幸子はくるりと向きを変え病室の方へ駆けて行ってしまった。







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