キミを描きたくて
「留学に行った、兄がいるんです。…兄が家に居なくなってから、まともに絵が描けなくて」

「なるほど…お友達とかは?」

「教室の隅で、絵ばかりだから…全然」

「…いつも描いているの、抽象画ですよね。お兄さんへの想いを、率直に色で表してみては?」


誰もが言える、そんなアドバイス。
でも、その誰もは彼女の周りにはいない。

僕が言うと、直ぐに彼女は目を輝かせて、パチリ、と初めて目が合った。

まるで美しいメデューサ。僕の体は、たちまち石のように動かなくなっていく。


「そっか、寂しいばっかりだから、描けないんだ…ありがとうございます、お兄さん」


"お兄さん"。
そう呼ばれて心が高なる。

恋する乙女かのようだった。


「は、隼人…隼人って、言います」


名前を呼んで欲しくて咄嗟に答えた。
彼女に僕の名前を、誰にも救って貰えなかった僕の名前を呼んで欲しかった。


「は、隼人くん…ありがとうございます」


目をきらきらさせた、少女。
名前を、早見依茉と名乗った。

名前すらも、愛おしい。

そんな彼女がいるから、僕は毎日バイトが楽しかった。
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