3次元お断りな私の契約結婚
 ゆっくりと視線を動かして、ダイニングテーブルの上に置きっぱなしの緑の紙を見た。

……忘れてたわけじゃない。でも、思い出さないようにしてた。

 しばらく沈黙が流れた。お酒もちっとも進まない。頭がふわふわと浮いたような感覚になった。ずっと閉じ込めていた感情が溢れてきて、全身を支配しているような浮遊感。

 ふ、と自分の口から笑みが溢れる。樹くんが不思議そうに見た。

「樹くん、ありがとう励ましてくれて。今日一日、余計なこと考えずに済んだ」

「…………」

「私は大丈夫だよ。そりゃすぐには立ち直れないかもしれないけど……それでも、時間が経てばちゃんと」

「杏奈ちゃん」

 いつもの明るい声じゃなく、低めの音が聞こえて口をつぐんだ。

 横を振り返る。私を真剣な眼差しで真っ直ぐに見ている樹くんに息が止まった。

 色素の薄い瞳と髪は、巧とはまるで似ていない。それでも、どこか巧を思い出させるのはやはり兄弟だからなのか。

 まだ濡れたままの髪を揺らし、樹くんが言う。



「俺のところにおいで」



「………え」

 予想外の言葉に息が漏れる。彼は非常に真剣なまま続けた。

「最初は巧ともルームシェアだったんでしょ。じゃあ俺でもいいじゃん。ここまですごいマンションじゃないけど部屋は余ってるし」

「え、でも」

「俺のところにおいでよ」

 その声に、心が震える自分がいた。

 聞いた事ない樹くんの不思議な声色。普段子犬みたいだと思っていた無邪気な彼の、見たことのない表情。
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