極上御曹司は懐妊秘書を娶りたい
「どうして、これが……ここに、」
 まるで、二度とここには戻らないとでも言うように、――――いや、実際そうなのか。
 ぐらり、ぐらりと、視界が揺れる。血の気が引いていく感覚と同時に忍び寄ってきたのは、奈落へと吸い込まれていくような絶望感と、身体の奥底から突き上がってくる慟哭だった。いない、紗世がいない。たった数行だけのさよならを残して、俺の前から消えてしまった。
 なんで、という唸るような呟きが、噛みしめた歯の奥から溢れ出る。力の入りすぎた指先が痙攣し、その内側にあったグラスにヒビを入れて。
「ッ、……!」
 ばりん、という断末魔と共に、そのグラスは無残にも砕け散った。
 ばらばらと零れていく硝子の破片。微かにオレンジがかったライトを反射して眩く光る様が、無性に忌々しい。遅れて手のひらに鈍い痛みが広がって、握りしめた拳の隙間から鉄くさい赤が垂れ、テーブルや硝子の破片を汚していった。
「は、……」
 飲み込み損ねた空気が喉に引っかかり、俺は身体を折って何度か咳き込む。項垂れるような格好になると、じんじんと痺れていた頭の芯がいやに熱っぽいことに気が付いた。
「……紗世」
 いないと分かっていても、唇は勝手に彼女の名を紡ぐ。垂れ続ける血を眺めながら、手の痛みと心臓の痛みが同じなら、心臓も血を流しているのだろうかと頭の片隅で考える。
 彼女に教わって料理の練習をしていたとき、一度指を切ったことがあった。そのときの紗世は俺より余程大慌てで、半泣きになりながらてきぱきと処置をして、絆創膏を貼ってくれたが、その彼女はもういない。
 半年前まではこの家に独りでいるのは当たり前のことだったのに、今となってはひどく寒々しく感じた。この空虚さがより一層俺の心を掻きむしって、堪らない。
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