極上御曹司は懐妊秘書を娶りたい
「くそ、……」
 悪態を一つ零せるだけの余裕が生まれたのは、痛みで頭が少しだけ冴えたからだった。俺は深く息をつきながら、彼女の置手紙を読み返す。『誠に勝手ながら、今日でハウスキーパーの職にお暇を頂きたいと思います』という言葉に始まり、当たり障りのない『今まで大変お世話になりました』という言葉で締めくくられた、短い手紙。そこに明確な理由の記載はなく、ただ俺への感謝と、契約期間が残っているのにも関わらず出ていくことへの謝罪だけが並んでいた。
「……分からないな」
 今朝までは普通だったはずだ。それがどうして、こんなにも急に家を出ていくなんてことに、――――そこまで考えたところで、俺はふと便箋の端に少し違和感を覚えた。何気なく指先を滑らせてみると、そこだけふやけたようにたわんで、質感が変わってしまっている。
「これ……涙の跡、か」
 手紙をしたためている途中に、目尻から涙が零れたのだろう。
 これを書いていたとき、紗世は泣いていたのだ。
 それに気付いた瞬間、死んでいた思考の回路が緩慢に起動した。よく見れば、紗世の服が入っていたクローゼットは不自然に開いたままで、いくつか彼女の荷物が残されている。そもそも、いつも丁寧で礼儀を気にする紗世が、俺に紙切れ一枚の挨拶で出ていくこと自体がおかしい。恐らく前々から計画していたのではなく、何かがあって、衝動的に飛び出していったのだろう。
 そして恐らく、――――その行動は彼女にとって『望ましいと判断したこと』ではあっても、『心の底から実行したいこと』ではなかったのだと思う。そうでなければ、手紙を書いている最中に泣いたりしない。
「紗世」
 もう彼女に向かって呼ぶことのないかもしれない名を、手紙に向けて密やかに呟く。
 紗世が俺に見切りをつけて出て行ったのなら、彼女の幸せを思い、このまま黙って手放してやることだってできただろう。
 だが今の俺は、惚れた女性が残した涙の跡を見逃してやれるほど、物分かりが良くないのだ。
 他の何を諦めても、紗世だけは諦めずに足掻くと決めたのは、俺自身だから。
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