極上御曹司は懐妊秘書を娶りたい
「あ……」
 生まれて初めての感覚だったけれど、知識としては知っている。俄かに早鐘を打ち始めた心臓の上を押さえて、私はその場に立ち尽くす。どうしよう、ついに来てしまった。興奮と動揺の中間に位置する情緒がぐらぐらと揺れる。ひとまず床を掃除して、それから病院に行く準備をして、それから、それから、――――
「景光さん……」
 掃除と着替えを終えた私は、手の中にあったスマホを見下ろして一瞬思案する。
 今はお昼前で、夕方の会議まではまだかなり時間がある。あれだけ私を心配し、『病院に行く以外では絶対に家から出るなよ』と念を押してから出て行った景光さんのことだから、今連絡してしまうと会議どころではなくなってしまうかもしれない。
 いっそこのまま黙っていて、会議が終わったころに連絡したほうが、――――でも、その頃にはもう陣痛が始まって、病院にいる可能性だってあるし……。
 そうやってあれこれと悩む私の目に、ふと左手の婚約指輪が映り込む。
 そして、これを貰ったときに言われた『これからは夫婦なんだから、ちゃんと俺を頼ってくれ』という言葉が、耳の奥に反響して。
『もしもし、紗世か? 何があった』
 気付いたときには、景光さんに電話をかけていた。
 電話口に出た景光さんはいつも通りの声だったけれど、いつもよりほんの少しだけ早口だ。早まったかなという思いが頭を掠めたものの、かけてしまったものは仕方がない。私はたどたどしく現状を告げた。
「あの……お仕事中にごめんなさい。さっき、破水したみたいで……」
『本当か!?』
 珍しい大声に、反射的に首が竦む。それが見えたわけでもないだろうに、電話の向こうからは『悪い』という言葉と、少し照れたような咳払いが聞こえた。
『確か、二十四時間以内に病院に行けばいいんだったな。陣痛は?』
「少しだけ……でも、もう少し様子をみようと思います」
『分かった。俺が帰るまで待っていられそうだったらいいが……無理そうだったら、先に病院に行くんだぞ。タクシーは呼べるか?』
「……心配性ですね」
『仕方ないだろう。君が大切なんだ、大目に見てくれ』
 互いにくすくすと柔らかい笑い声を交わして、二言三言と念押しを受けながら電話を切る。
 先ほどまでの途方に暮れたような、独りで放り出されたような不安感はどこにも見当たらなくなっていた。
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