ここではないどこか

 さすがだな、と思った。
 俺たちのマネージャーが当時担当していた若手俳優のドラマ撮影で訪れた地方で声をかけたらしい。「この子は絶対にスターになる」ありきたりな言葉ではあるが心の底から感じた、と以前話してくれたことがあった。
 仁くんは立っているだけで人を惹きつける華がある。どうしても目で追ってしまうのだ。端正な顔立ちとは一見不釣り合いなほどにコロコロと感情のままに変わる表情が、より一層彼を魅力的にみせていた。
 遠くから見ると仁くんの華がよくわかる。
 人見知りではないし、弟の仕事仲間だ。しかしそれを差し引いても、初対面の人に対して姉さんがあれほど顔を綻ばしているところは、なるほど初めて見るなぁ。
 ぴたりと床に縫い付けられたように足が動かなかった。あれだけ急いで来たのに、今はもうこの場から離れてしまいたかった。それでも、自然と姉さんの左肩に置かれた仁くんの手を、口元に緩く当てられた姉さんの手を、お互いの方を向き合ったつま先を、地獄にいつ落ちてもいいように、これは予行演習だと言い聞かせて目に焼き付けた。

 そして俺の目はひっそりと緑を帯びるのだ。

「あ、透だ」

 仁くんが俺に気づいて右手を上げる。姉さんが俺を見て柔く微笑む。そして俺はまたその眼差しに赦された気になって、微笑み返すことができるんだ。

「お疲れ様。姉さん、ほんとごめん」
「大丈夫。透が忘れ物なんて珍しいからびっくりしたけど」
「たしかに、珍しいよな。俺はしょっちゅうするけど」

 仁くんはそう言って大袈裟に笑う。「笑い事じゃないけど」瑞樹がこの場に居たなら、そんなことを言いそうだなと思った。

「俺が言うのもなんだけど、急いだ方がいいかも」

 他意を感じさせないように努めて明るく言うと、仁くんは「そうだわ」と目を大きく開き焦った声を出した。

「じゃあ、姉さん」
「じゃあ、香澄さん」

 俺の言い方に倣った仁くんがちゃかすように口元をあげた。姉さんは目を細めてじとりとした視線を仁くんに投げたあと、「がんばってね」と微笑んだ。一度振り返った俺に再度寄越してくれた微笑みは俺だけのものだ。
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