ここではないどこか

 午前7時。10時からの葬儀に間に合うようにタクシーの手配をする。透を連れて電車に乗ることはかなり憚れたからだ。

 朝ごはんを食べようと台所に立ったとき、扉が開いて寝起きの透が入ってきた。
 あ、ダメだ……泣きそう……。私は透へと向けた視線を慌てて調理台へ戻した。ライブで見たときは平気だったのに、いざ近くで透を見るとあの頃に引き戻された感覚に陥った。アイドル黒岩透ではなく、私が今も引きずっている透だ。

「おはよ」

 涙は引っ込めたが、顔は見られなかった。挨拶をしながらも、私の視線は調理台へ向いたままだ。

「……おはよ。今日何時だっけ?」
「10時からだから、9時にタクシーの手配したよ」
「そうなんだ。ありがと」
「朝ごはんどうする?パンとサラダと目玉焼きぐらいなら作るけど」
「……じゃあ、お願い」
「うん……」

 私たちは3年と半年の間でお互いに随分と大人になったようだった。その証拠に少しの気まずさは残しつつも、思っていたより普通に会話を交わすことができた。

「おまたせ」

 スマホを触っていた透の前にお皿に盛り付けた朝ごはんを置く。

「ありがと。いただきます」

 私が着席するのを待って2人で食べ始めた。あの日々と何ら変わりのない光景だ。ただ会話がないだけ。

「あ、そういえばこの前ライブを観にいったんだよ。後輩の子と一緒に」

 沈黙に耐えられず私が発した言葉に透は目を丸くした。

「東京の?」
「そう、東京の2日目。アンコールで歌った、透が作詞したって曲、あれが印象に残ってる」
「ここではないどこかへ」
「そう、そ、れ……」

 不意に交わった視線に私の心臓は締め付けられたかのように苦しくなった。
 私を好きだった透はもういない。もういないのだ。
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