ここではないどこか

「片付けは俺がするから」

 これもどちらから決めたわけではないが、いつも通りのことだ。姉さんがカレーを作って、俺が片付けをする。そしてそれが終わると2人でテレビを観る。その2人の時間が俺にとって愛おしいものだった。

 まだ少し湿った手でリビングのソファに座ると、クッションを抱えた姉さんが「ありがとう」と言った。「今日はなにを観る?」そう聞こうとして姉さんの方を見てつい笑みが漏れた。
 
「え、なに?」

 脈絡なく笑われ、姉さんが戸惑った声を出す。

「いや、それ……」

俺が指差した先には抱えたクッションを撫でる姉さんの親指があった。俺の人差し指の先を追った姉さんは、なぜ俺が笑ったのか納得がいったようだった。「もう、」と顔を僅かに赤らめクッションを抱え直した姉さんのなんと愛おしいことか。癖の一つさえも愛おしい。もしも柔く柔く何度も往復する親指に手を撫でてもらえたら……想像するだけで胸がきゅうと縮まった。
「それを言うならねぇ」と姉さんが俺の顔を覗き込み唇に触れた。

 「ほら、また唇舐めてたでしょ。乾燥するからやめた方がいいよって……」

 うん、何度も聞いた。それでもやめられない。やめた方がいいとわかっていても、染み付いた癖はやめられなかった。
 いや、そんなことよりも……先程確かに俺の唇に触れた姉さんの指先の感触が。一瞬にも満たない時間だったろう。しかしビリビリと痺れている唇が現実だったことを教えてくれる。触れたくても触れてはいけないと、頑なに線引きをしていたこちら側にいとも容易く侵入してくる姉さんに目眩がした。
 それは俺のことを下心なく弟だと思ってくれている紛れもない証拠なのだろうか。それともこれが俺の心配している思わせぶりな姉さんの一部なのだろうか。
 たった刹那、唇の痺れがなければ触れたかどうかすら曖昧な程でこうも心が乱される。姉さんの親指に撫でてもらえたらなんて……そんなことがあってたまるか。もしそうなれば俺は死んでしまうかもしれない。

「ごめん。そんなに嫌だった……?」

 そりゃそんな反応になるだろうなと思った。自分が触れた途端、石のように固まる弟を見て姉さんは至極当然の考えに辿り着いた。

「いや、びっくりしただけ……」

 風呂に入ってくるわ、と出した声が思ってもみなかった冷たさで自分でも驚いた。これじゃあ、怒っていると勘違いされてもおかしくはないだろう。いや、もしかしたら俺は怒っているのかもしれない。
 なにに?無防備な姉さんに?いやいや、俺たちは姉弟だろう。世間一般の触れ合いがどれほどまでかはわからないが、あんなもの許容範囲じゃないの?じゃあ、何に?男として意識されていないことを突きつけられたから?なんて自分勝手。
 わからない。俺は姉さんを姉さんと認識してから今日まで、ずっとただ唯一の最愛の人として想ってきた。だからどの行動が、どの感情が、弟として正しく、そして間違っているのか、それがわからないんだ。

< 7 / 83 >

この作品のキーワード

この作品をシェア

pagetop