可愛すぎてつらい

15.芽生えた気持ち

 真摯な表情で(それでも無表情に近いけれど)、チェルシーのことを特別だと言ってくれる目の前のフレッドと、記憶のなかの少年が重なる。

「フレッド様と私は幼い頃に出会っていたのですね。覚えていなくて……すみません」
「いや、君は幼かったから。忘れているのも仕方ない」

 サマンサと同じように答えたフレッドは、眉間に縦皺もなくいつもより穏やかで、確かに彼の母と似ていた。

 けれど件の紙を拾うよりも前だったならば朧気な記憶とはいえ、あの王子様のように穏やかに微笑む少年が、まさか氷伯爵といわれる男と結び付けられるはずもない。フレッド少年のことは思い出すことすらなかっただろう。

 ふと頭を過った、あの本に挟まれていた幼き日のチェルシーが描いた手紙。彼はどんな思いで、それを取っておいてくれたのだろうか。そう思った瞬間、思わず口に出てしまっていた。今なら質問にも優しく答えてくれる気がしたのだ。

「あの、私の書いた手紙、大切に取っておいてくださって嬉しかったです」
「勿論だ。けれど決して栞代わりに使っていたわけではない。机の上に置いてあったのを間違えて挟んでしまったらしい。普段は大切に保管してあるんだ」

 若干斜め上に弁明をするような返事が返って来たが、その慌てたような言い方が可愛らしく思えた。

 その瞬間、きゅんっと胸が高鳴ってチェルシーは慌てて手を当てる。素敵な小説やお芝居を見たときにも、このように胸が締め付けられることはある。けれどそれよりもっと強烈で、刺激的だ。もしかしてそれは自身が主役だから?

 だってそんなの、舞台のヒロインのように、チェルシーがフレッドに恋をしているみたいじゃないか。

「……ありがとうございます。小さい私も喜んでいますわ」
「そうか。だといいな」

 チェルシーは言葉少なに何とか返すも彼を直視できない。ちらりと盗み見れば、フレッドがふっと目元を緩めていた。胸はさらにキュキュンと音を立てる。目の前の彼にもその音が聞こえてしまうほどに。
 グッと奥歯を噛んで耐えたけれど、どうしても堪えきれなくて、跪いたままのフレッドに抱き付いた。

「うわっ」

 ピョンと跳ねたフレッドの寝ぐせが、頬を掠める。清潔感のあるコロンの香りと、少し汗の匂いがするのは、今朝慌てたと言っていたからだろう。それは昨晩の彼を思い出させるもので、チェルシーの心臓はとうとう病気になってしまったように暴れている。至急ランサム家の主治医に診てもらわねばならないかもしれない。

「フレッド様ぁ……」

 尻もちをついたフレッドに乗り上げるようにしてしがみ付く。幼子のように首に巻き付いていた腕を少しだけ緩めると、目元を少し赤く染めたフレッドと、至近距離で目が合った。

 甘い空気が二人を包む。チェルシーの熱がフレッドにうつってしまったかのように、彼の目も少しだけ溶けているように見える。そのまま何も考えずに、どちらともなく唇は重なった。
 ほんの軽く合わさっただけで唇はすぐに離れたが、フレッドは前のめりになる。そして上体を支えるように床についていた手を離し、チェルシーの後頭部と腰を支えて引き寄せた。
 再び重なった唇は、フレッドが角度を変えたことにより深く合わさって、閉じきれないチェルシーの唇を割って熱い舌が侵入してきた。先ほど異常がみられていたのは胸ばかりだったのに、今は下腹部の奥も連動して甘く疼いている。

(私、一体どうしてしまったのかしら。身体がおかしいわ)

 もっとして欲しいのに、止めても欲しくて。けれど昨晩のように、もっとして欲しい。

「——ぷはっ」

 回らない頭でそう思っていたけれど、突然唇は離れてしまった。名残惜し気にフレッドを見つめるチェルシーに、今度は彼が抱き付いた。

「……これ以上は我慢が出来なくなってしまう」
 チェルシーを包み込むようにして抱きかかえ、肩に額を置いて呟く。息を荒げたその様子はとても苦しそうだ。

「フレッドさま……」

 私も胸が苦しいの。そう言おうと口を開いたチェルシーだったが、ガタンと馬車が音を立てて停まったので言葉を飲み込んだ。

「……さぁ、行こう。チェルシーが行きたいところへ」

 チェルシーの背中をぽんぽんと優しく叩き、そう告げたフレッドの表情はいつもと同じだった。けれど声に少しだけ甘さを含んでいる。チェルシーにしか分からないほどの変化がやけに嬉しい。

「はい!私、楽しみです」

 心からのチェルシーの笑みにフレッドは口を引き結び、今度は深く眉根を寄せて何かに耐えるような表情をした。

「可愛すぎる……」

 フレッドはそう呟いたのだが、
「旦那様、奥様。商店街に到着いたしました」
 と、扉の外から御者の声掛けがあり、チェルシーの耳には入らなかった。

 * * *

 正直、無愛想なフレッドとのデートなんて、間が持つだろうかと心配だった。けれど先ほどの馬車の雰囲気のまま腕を絡ませ合う姿がショーウィンドウに映れば、恋人同士のように見えた。いや、それよりも夫婦ではあるのだが。

 まさかこうしてフレッドと街を歩くなんて思いもよらなかった。街ゆく女性たちは、みなフレッドを見て頬を染めている。彼の持つ人をあまり寄せ付けない雰囲気から、むやみやたらに近寄られたりはしないのは幸いだが、チェルシーは面白くなかった。

 少し前に、いつか役目を果たしてから恋愛をすればいいのだと思っていたが、それはフレッドにだってあり得るのではないだろうか。どこかの誰かを好きになって、馬車でチェルシーにしたようなキスをするのかもしれない。

 どうして今まで気が付かなかったのだろう。
 けれども仕方がないとも思う。フレッドのことは旦那様という認識はあったが、彼について深く考えもしなかった。まさか幼少のチェルシーの手紙を大切に残しておいてくれるような人だなんて知らなかったのだから。

 ——嫌だ、と思った。他の誰かがフレッドにこうして腕を組むなんて、想像しただけで心に重しが付けられるみたいだ。

 良くも悪くもおっとりとしたチェルシーは、あまり物事に執着する性質ではない。小さいときから弟におもちゃを取られても別のおもちゃで良かったし、大きくなってからもそれは変わらなかった。そういう性格なのだと思っていたのに。

 フレッドの細微な表情の変化を知るのは自分だけでいい。色んな彼を知っているのだって。初めてのやり場のない嫉妬心はチェルシーを混乱させた。
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