可愛すぎてつらい

2.そして日常に

 マリーは既に今日が非日常であることを知っていた。しかしその他の使用人は気付いてはいない。
 ランサム家当主であるフレッドの執務は、屋敷の執務室に籠って書類仕事をすることが半分、もう半分は領内の視察などで外出をする。

 本日は農場の視察のため出掛ける手はずになっていた。そういう日は当主が家を出る際に手の空いている屋敷の者は見送りにホールに並ぶ。
 夫人であるチェルシーも、もちろん出来る限り先頭で見送っていた。昨晩濃密な時間を過ごしたが、目覚めも良く朝食の時間にも間に合った、とすれば常と同じように見送りに立たない理由がない。

 寝ぐせもなく、きちんと身だしなみを整えたフレッドは、いつものように執事のハリスから鞄を受け取る。

 そして振り返り、チェルシーに
「行ってくる」
 と、無表情で言うのだ。たまに二言三言、帰宅時間など伝えることもあるが、それこそ業務連絡にしか聞こえない。しかしそれがこの屋敷の日常であるために、誰も気にも留めなかった。
 チェルシーの「行ってらっしゃいませ」という言葉の後に頭を下げながら復唱するだけだ。

 この日もチェルシーに
「行ってくる」
 と言って振り返るまでは同じだった。しかし少し違っていたのは、振り返ってから三歩ほどチェルシーに近付いたのだ。気付かない者もいたが、何人かは『どうしたのだろう』と主人とその夫人を見つめた。

「なるべく早く帰ってくる。王都を通るのだが何か欲しいものはないか?ケーキ……は昨日食べたばかりか。あまり連続で食べるのも身体に良くないだろう。チェルシーの身体は大層甘いがそれとこれとは別だ。そうだ、髪留めなら使うだろう?」

 いつも冷静沈着で物静か、ともすれば声すら何日か聞かないこともあるほどの無口な主人が、何か突然言い出した!
 使用人たちはギョッとして目を見開く。慌てて表情を戻した者もいたが、執事長であるハリスですら一瞬驚いていたので、咎められはしないだろう。

 突然の奇行とも言える早口に、未だ少女のような夫人は恐れてしまうのではと居たたまれなくなる。昔から仕えている者たちは大なり小なりフレッドの想いと、その不器用さには気付いてはいたのだから。

「ふふ、フレッド様ったら。だったらまた今度一緒に連れて行ってくださいな。それよりも早く帰ってきて下さったほうが嬉しいわ」

 チェルシーは怯えるどころか、あどけなさの中に艶が滲み出た笑みを浮かべた。彼女の周りにホワホワとした花が見えるようだ。

 さらにはなんと早口を聞き取っていたばかりか、チェルシーを愛おしく想うフレッドに対して満点の返答をした。同じく並んで見送りに立っているサマンサも感動したように手を胸に当てている。

 それはそう返事を返されたフレッドも同じで。いや母以上に感動に打ちひしがれていた。

「では今から……」
「旦那様、お時間です」

 何かを言いかけたフレッドに被せるようにしてハリスが口を挟んだ。有能な執事は主人が何を言い出すのか見当がついたのである。

「クソッ、仕方ない……では直ぐに帰ってくるから、待っていてくれ」

 そうして驚きから立ち直れないでいる使用人たちの目の前でチェルシーを抱き寄せると、その柔らかい髪に鼻を埋めて動かなくなった。ポンポンとチェルシーが彼の背中を宥めるように叩くと、漸く顔を上げたフレッドは出掛けにするにしては熱く、やたらと長いキスを、我に返ったハリスに引きはがされるまで、し続けた。
 そうして未練タラタラの表情で、何度も振り返りながら彼は馬車に乗って屋敷を後にしたのだった。

 あれは本当に今まで仕えてきたランサム家の当主、フレッド(またの名を氷伯爵)なのだろうか?
 表情はさすがに豊かとは言えないが、目で、行動で、チェルシーに対する愛に溢れていた。

 当のチェルシーも恥ずかしそうにしながらも、嬉しそうに受け入れている。ついこの間までは言葉だけのあっさりとした出掛けの挨拶だったというのに。

 なにがあったのか、なんて当事者にしか分からないことであるが、当主と夫人が仲良いに越したことはない。驚きはしたものの、見送りは微笑ましく(目の遣りどころには困ったが)終えた。

 しかしこれからこれを毎回見させられることになるとは思いもよらなかったわけだが。
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