可愛すぎてつらい

3.それとも私?

 
 お茶会やパーティの誘いの返事など、チェルシーができる仕事は前伯爵夫人のサマンサやハリスの指示を仰ぎながら処理していく。
 そこからは刺繍をしたり、朝の光景は夢現であったのかと思ってしまうほど常と変わらぬランサム家であった。

 ―—フレッドを出迎えるまでは。


 夕刻になって馬車が門をくぐり、私室で待つチェルシーに主人の帰宅が知らされた。

 刺繍の手を止めて、見苦しくないように急ぎ足で玄関ホールへと向かう。いつもは知らせを聞いてからゆっくりと向かっても十分間に合うほどなのに、今日は階段の途中の踊り場までしかチェルシーは辿り着けなかった。フレッドは急いでいるのか、先触れから屋敷に入るまでがいつもよりやたらと早い。

「おかえりなさいませ」と少し大きな声で言うべきだろうか?しかし急いだ上にそんな行動はフレッドも驚き、はしたないと思うだろう。未だに無表情で見下ろされる様子が目に浮かんで、足が止まった。チェルシーはもう、彼に良く思われたい。

「おかえりなさいませ。フレッド様」
 浮足立つ気持ちを抑えて、踏み外してしまわぬよう気を付けて階段を下りる。使用人に上着を渡して背を向けているフレッドに、近付いてから声を掛けた。勢いよく振り向いたフレッドは想像通りの無表情のまま、チェルシーに向かってやにわに突き進んできたので使用人はもちろん、チェルシーですら姿勢を正して硬直した。

「ああ、チェルシー、ただいま」
 しかしフレッドは固まったままのチェルシーをぎゅうぎゅうに抱きしめた。頭頂部に吐息とともに落とされた挨拶はくすぐったい。背の高い彼に正面から抱きしめられると、すっぽりと囲まれる。それがとても安心できて漸く肩の力を抜いた。
 これまで端的に挨拶を交わしていた日々は何だったのだろう。出迎えを体全体で喜んでくれる今こそが自然に思えた。それはフレッドの兼ねてからの願望でもあったし、素っ気ない態度の裏で、チェルシーを抱きしめるイメージトレーニングはバッチリだったからだが。

(良かった……)
 チェルシーは小さく息を吐いた。心を開きかけてくれている彼は朝の幻などではなかったのだ。
 ほんの少しの戸惑いと安堵。フレッドから遅れること数秒、チェルシーも細身ながらも筋肉質な夫の背に手を伸ばした。

(あら?ちょっとなんか……)

 スゥーと音がして、一拍の後に気付いた。チェルシーの髪に顔を埋めたフレッドは、思いっきり息を吸い込んでいる。

「ええ、っと。フレッド様、私……臭いです……か?」

 小さな声で不安を隠すように、フレッドの胸元に額を擦り付けながらそう呟いたチェルシーに「いや……」とすぐに否定の言葉が返される。

「まさか。それでも構わないが、今はチェルシーが足りなかったから、補充している」
「そんな……。それに今までそんなことされてなかったのに……」
「…………」

 しまった。いつもは寝ている彼女でこっそりと補充していた、とは流石に言い辛く、暫し逡巡していると、
「ふふ、でも私もフレッド様に会いたかったんです。今までどうして平気にしていたのか分からないほどに」
 そういう事ですか?と、宝石のような瞳で至近距離から見上げられ、フレッドはグッと言葉に詰まった。妻が可愛すぎて、帰宅早々心臓が異常をきたしている。

「…………」

 無言で固まるフレッドに、どうしたのだろうと首を傾げるも、すぐに「そうだわ」と思い至った。

「お腹すいてますよね。お食事はまだでしょう?それとも……」

 彼女の言葉に、切れ長の目を見開く。フレッドが騎士団に所属していたころの、とある話が頭を過る。

 新婚の騎士の妻が帰宅してきた夫に、
「おかえりなさい。先にお食事にします?それか湯浴みをなさいます?……それとも私?」
 と言ってきて、それはそれは盛り上がったらしい。当時はくだらないと思いつつも、愛しいチェルシーで想像してしまい、そんなの一択だろうと思っていた。もちろんポーカーフェイスかつ無言で、ただ聞いていただけなので、そんなことを思っていたなんて誰も知らないことだが。

 空腹感はある。それは食欲なのか性欲なのかはハッキリしていない。が、選べるならば当然チェルシーを抱くことを希望するだろう。

「チェルシー……」
「はい?」
 少し掠れて耳元で囁くような声は、甘い夜を思い出させた。落ち着かなくてフレッドの腕の中で僅かに身じろぐ。

 ちなみに二人の世界に入ってしまった彼らは気付いていないが、玄関の出迎えのそのままの状態である。有能な執事であるハリスがこっそり采配をし、戸惑いを隠しきれない使用人たちは各々持ち場へと戻っていった。

「チェルシーとする」
「え?……では一緒に行きましょう?」
 腕の中から見上げるチェルシーの頬は上気していた。それはぎゅうぎゅうに抱きしめられて熱が籠ってしまったからであるわけだが、フレッドはもちろん誤解したままである。

 ああ、可愛い、可愛すぎて。

「つらい……」
「まぁ!大変!急ぎましょう!」
「あ、ああ。」
 腕の中から器用に抜け出したチェルシーは手を引き歩き出す。フレッドも積極的な妻に戸惑いながらも素直に従った。

 まぁ、急いでいなくもないが、チェルシーを一刻も早く所望しているのは事実。丈の長いジャケットで隠れてはいるが、自身は直ぐに臨戦態勢になれるようアップをしている。少し歩きにくいが、結婚して愛しいひとと一つ屋根の下で暮らすようになってからは、こんな状態でも平然と装うことには慣れていた。

 それにしてもこんなふうに誘ってくれるなんて。

 急に大胆になった愛しい妻にフレッドの相好も崩れる。しかしチェルシーは先導しているし、既に持ち場に戻った使用人たちはだれもその表情を目撃しておらず、驚かれることはなかった。
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