キネンオケ
6

「最近、いい音鳴らすねえ」

次の公演に向けて練習をしているときだった。コンマスの男性奏者が朋美にそう言ってくれたのだ。

「離れて座っている私まで気にかけてくださるなんて、さすがですね」

白髪交じりの、初老と言ったら怒られそうな、ベテラン奏者は控えめに微笑んだ。

「まだまだ耳がよくてね。でも本当。切なくも甘美、というのが合うかな。もっといろいろな曲で聴いてみたくなる」

長年、第一ヴァイオリンのトップ奏者としてやってきた人からそう言われるのは光栄だった。コンマスはソリストとは違うすごく重要なポジション。いつかなれるのなら、それは本当に素晴らしいことだと思う。しかし向き不向きがあるし自分がコンマス・コンミス向きとは思わないが、こんなふうにオケのみんなから信頼されている姿はやはり尊敬も憧れもある。

しかしながら「いいことあったの?」とニヤついて聞いてくる彼は結局ただのおじさんで、朋美は呆れたように笑うも、嫌な感じはしなかった。

「色々あって、充実していますよ」

軽く笑ってあいまいな答えを返すも、その様子に彼は満足そうに微笑んだ。
いいことだ、と言って。それから仲間の音も楽しんで、と言って。


「会って2時間で断るなんてもったいないわ!とりあえず連絡先を交換してお友達でもよかったじゃない」

あの夜、遠藤先生と沙耶との食事を終えて実家に帰ると、母はそう言った。お見合いのいい報告を聞きたくて寝ないで待っていたのに、と言うので、二人で飲みなおすことにした。

「だって、何か違うとかって、直感でわかるじゃない。」

同時に魁に感じた「何か気になるというのも」というのは言おうか迷ったが、朋美はビールにレモンを絞って、パナシェもどきにしたものを、想いと一緒にぐっと喉に通すと母親は言った。

「2時間でわかるかしら。とりあえずお友達でキープしておけばよかったのに。ああ、もったいない、もったいない。もったいないお化けがでるわよ」

心底残念そうに母親は言って、二杯目のジンライムを飲み干した。
確かに、もしも魁と知り合う前の話だったら、違う気持ちだったかもしれないけど、そんな「もしかしたら」の話は、いくらしたって意味がない。だって今、私はもう、ここまで来てしまった。

目の前にあること…例えば今、見慣れた赤いラインの入ったボトルのイギリスのジンをグラス注いで、青緑色の小さな半月のライムをきゅっと搾る母の、長年家事をしてきた人らしい皺のある手。それでも清潔に手入れされた爪の先。今ここにあるのは本当にただそれだけ。その左手の薬指に光る父との誓いの指輪には、それを指にはめたときと同じ愛が今ここにあるのかはわからない。それでも今ここにある積み重ねられた時間は、何にもかえがたい。過ぎ去った時間を取り戻したいかどうかなんてことを確認したいわけでなくて。

「意外と打算的になれないのは、お母さんだって一緒じゃない」

その言葉に一瞬だけ何かを思ったように無表情になると、まあね、と母は笑った。
本当なのか疑わしいが、わりといい家の子だった母は、もっといいところの人と結婚させるつもりだった、と祖父母は言ったらしい。でも母はごく普通の家庭の幼馴染と結婚した。その幼馴染の少年は、今やすっかりただの会社員のおじさんだが、年相応の役職を経て朋美や弟をきちんと大学まで卒業させたことや、母の誕生日にささやかでもお祝いを欠かさないことはとても立派だと思うし、愛を感じる。

「自分の心の声に素直になるのは大切なことよ」

そう言いながら三杯目のジンライムに丁寧に口をつける母の横顔がきれいで、嬉しかった。

「仕事も、好きなように楽しくね。音楽は楽しくないと」

少しばかりピアノが引けた母は音楽の喜びを知っていた。それを仕事にはしなかったが、音楽は楽しくないと、とは口癖のように言っていた。

音楽を仕事にしていられることは幸せだ。そのくらい大好きだと、朋美は胸を張って言える。でも本当に、だからこそ、仕事のことだけでも大変。あまり器用でないから目の前のことに一生懸命になるしかできない。本当はヴァイオリンのことだけで精一杯。その他大勢でいるしかできないもどかしさはいつだってある。
特別な音を奏でたいように、誰かの特別になりたい。その誰かはたった一人でいい。器用でない自分が同時に複数との恋愛を進行するなんて、もちろんできるはずがない、と朋美はわかっていた。おそらくは母も。
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