キネンオケ
CDは違う曲目に移っていた。ラヴェル、亡き王女のためのパヴァーヌ。いつかいた王女が踊ったようなパヴァーヌ。切なくて美しい音楽。泣きたいほどに、美しい。

「ほんと、朋美のおかげかもね。家にあるCDとかレコードなんて触ろうとも思わなかったのに。最近、聴いてみようかなって思うようになったから」
嬉しい言葉にリアクションする暇も与えず、手を大事にね、と魁は言った。そしてどうしても気になってしまうマキちゃんのことなど、もちろん魁は何も感じさせず、それから大きなあくびを一つした。時刻は午後十時。まだ早いけれど眠くなってもおかしくはない時間帯だ。

「眠いの?」
「昨夜、二時間しか寝ていない」
「なんでそんなときに」
「色々あってさ。増殖させてた細胞が全滅して、やり直しとか。教授の人使いも荒いし。でも、いいこともあった。うん、たぶん、いいことのはずなんだけど。」

彼の瞼はもう半分閉じていた。
そして5分だけ、とつぶやいて、そのまま床になだれ込んで、突っ伏す形で彼は眠った。まるで行き倒れの人みたいに。

ちょっと、という朋美の言葉はもう彼の耳には届いていないようで、彼は冗談ではなく本当に眠っていた。静かな規則正しい寝息。朋美の左手を掴んでいた彼の手の力は少しずつ緩まって、ほどけてゆく。

よく見ると指先に細かい傷がたくさんあった。消毒薬とか、試薬とかで傷むのかな、と思ったら、無意識のうちにその指先をなで、手を重ねていた。温かい、大きな手。この手は、何を掴もうとしているのか。何を守ろうとしているのか。

朋美にはわからない。その、今日あったいいことでさえも聞くこともできないままだ。近くて遠いなんてどこかで聞く言葉を、よくわかってしまう。こんなに近いのに、彼をすべて知ることはできない、その距離の遠さ。悲しみさえ感じる。

それでも、今、一緒にいる。呼吸のたびに動く胸の動きはほとんど同じペースで、重なった手のひらは同じくらい熱い。確かに。同じ瞬間に生きている。

たった5分であってもいい。
過去も未来もいらない、と思った。
自分の知らない彼の過去に何があったかよりも、未来の約束よりも、ただ今は、今この瞬間が愛おしいだけ。

重なる手のひらに、その熱さに、今を分け合っていることが、確かな現実で喜びだった。本当に、今はそれだけ。

魁の手を朋美はもう一度強く掴む。
でも、知ることができるのなら。

ねえ、あなたが本当に取り戻したいものって何?再生医療を志したきっかけの本当はどこにある?ヴァイオリンを弾いていたマキちゃんのこと。他にもあるの?わからない。聞いてもいいの?教えてくれるの?

魁の穏やかな寝息を聞いて、傷んだ指先に触れて、温かな体温を感じて、朋美は一人で切なく美しい旋律を聴いていた。ゆったりと奏でられるパヴァーヌ、いつかいた王女のための。いつかいた誰かのための、泣きたくなるほど美しい音楽に身を委ねて、もう5分だけと思って魁の手に触れたまま朋美は静かに瞼を閉じた。
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