キネンオケ


次の瞬間に和樹の声で「おつかれ」という元気な声が聞こえて、朋美は我に返る。同時に安堵した。

和樹の存在が、すごく落ち着くほどに、魁は他と違った。
和樹とも違った。誰一人同じ人がいないということを、改めて感じるような何か。身だしなみとかそういうことではなくて。

「二人、もう打ち解けた?」
「そんなわけないでしょう。たった今、顔を合わせたばかりよ」

和樹の言葉に朋美はいつもの調子を取り戻して声を上げる。それに加わるように魁が言った。

「俺は待ち合わせの十五分前からいたよ。遅すぎる昼食をとっていたんだ。そしたら楽譜を眺めているのが見えたから」

それでわかったのか、と朋美が思っていると和樹が言った。

「忙しいところ悪いね。でもぜひ魁に紹介したいと思ってさ。彼女が、朋美。ヴァイオリンがすげえうまい」

和樹に紹介されて朋美は恐縮です、と言いながら軽く頭を下げる。

「で、こっちが瀬崎魁ね。俺の中学・高校の同級生。大学は別で、魁は東大医学部を出た医者なんだ。って言っても臨床じゃなくて研究のほうに進んでるから医者っぽくないけど。」

その言葉に、朋美は思わず目を丸くして聞いてしまう。

「研究って、研究機関とか?」
「いや、大学院。」

魁は笑って言うと、その整った顔立ちを歪ませながら豪快に口を開けてパニーニの残りをを気持ちよくその大きな口に入れた。朋美は思わず表情をなくす。

学生?

そんな朋美の心の声が聞こえたかのように和樹が笑ったのが見えた。いくら優秀でも学生というのは、考えてもいなかった。独身で彼女のいない誰かというのにはあてはまる。けれど、結婚を考えたお付き合いがしたい自分にとってまだ学生の魁は紹介されても戸惑うのは自然なことではなかろうか、と朋美は動揺を隠せなかった。だって大学院って、卒業して社会に出てあと数年は働いてなんて考えると、結婚なんて遠い未来じゃないの、と思うのだ。
そんな朋美におかないなし、と言う様子で和樹は笑った。

「二人、気が合うかなと思ってさ。」

にんまりと、丁寧に口角を上げる。学生時代からの友人と一緒にいるせいか、心なしか少年のような幼さを感じさせながら、和樹は笑っていた。

「魁の夢ってすごいんだよ」

もう夕方だしとビールを飲み始めた和樹はさらに機嫌よさそうに笑って言う。話の流れから、ここはそれについて質問するべきかと思って朋美は聞いた。

「夢が、あるんですか?」

若干こわばった笑顔だったかもしれないが、自然な様子を心がけたつもりだ。そんな朋美を前に、魁は言った。先ほどと変わらないままの笑顔で、とても同い年とは思えないほど若々しい顔つきで。

「そう、タイムふろしきとか作れたらいいなあって思って」

タイム、ふろしき。
表情が固まったままの朋美の横で和樹が声を出さずとも笑っているのがわかった。

「あの、ふろしきをかけると時間が戻るという……」
「あれは逆行だけじゃなくて進行もできるんだよ」
「あ、未来のほうに」
「そうそう。でも僕がしたいのは、逆行。」
「ああ、逆行」

ギャッコウ。力ない声で朋美は魁の言葉を繰り返す。次の言葉が出ないまま、朋美は彼がコーヒーを啜るのを見ていた。
同時に、自分の目の前で、なかなか手を付けられなかったアイスティー。いつのまにか氷が溶けて、その色は若干薄くなっていた。

こんなふうに氷が溶けたり日差しが傾いたりしていくのを受け入れていくばかりだった。そんななかで、未来に自分がどうやったら幸せになれるのかを考えること、それに必死になるだけ。
そう、時間を戻したいなんて考えたこともない。ましてその道具を作ろうだなんて。

これは、変人だわ。

朋美は血の気が引くのを感じる。
これがさっき味わった異質さだったのだろうか。

吹き抜ける夏の終わりの夕方の風が肌に妙に涼しい。
瑛子にすぐにでも連絡をしたいと思いながら、まだ十五分ほどしか経っていないこともあり、席を立つのも難しい。
どうにかこうにか笑顔を作って、大学院での日々だとか、ヴァイオリンのこと、演奏家としての日々のことなど、あたりさわりのない話題を一通りしたころ、和樹が言った。

「なんか二人似てる感じがするんだ。仲良くなってみたら。」

勝手なことを言う和樹に促されながら、今日の場をお願いした立場でもあることも踏まえ、朋美は仕事用の名刺を一枚渡した。電話番号はプライベートと兼ねたものだったが、この際どうでもいい。

それでは、今日はありがとうございましたなどと礼儀的に頭を下げて、もう会うことはないだろうと思いながら、朋美は和樹と魁の二人と別れる。

いくら彼女がいない独身でも、外見がよくてでも、東大卒の医者でも、大学院生で、時間を戻す風呂敷をつくりたいなんて言う不思議な人は無理よ!

心のなかでそう叫びながら、きらめく街並み、嫉妬してしまうほど無数にいるカップルを見ながら、朋美は銀座の街を足早に去った。
< 6 / 40 >

この作品をシェア

pagetop