スパダリ外交官からの攫われ婚


 母親の死はショックだったが、それを引きずっていつまでも悲しんでいる暇など(こと)にはなかった。旅館の経営は決して楽ではなく、父はいつも忙しそうに走り回ってばかり。そんな父親を少しでも助けたくて、琴は積極的に旅館の仕事を手伝った。
 空き時間に母の好きだった庭を眺めて、そうしてまた旅館の中を何度も行き来するのだ。たまに優しい声をかけてくれる宿泊客とのおしゃべりが彼女にとって小さな楽しみで。

 物分かりの良すぎる子供だと、誰かに言われたことがある。損な性格してる、馬鹿みたいだと。その時になんと答えたのかを琴はもう覚えていなかったが。
 
 父が再婚し二人の姉と継母が出来てからも、父や母の好きだった旅館のためなら多少の事は我慢できた。継母の意地悪な態度も、姉の我儘さも受け流して。
 そうしてずっと生きてきたはずなのに――


「私……志翔(ゆきと)さんが私から離れてしまったら、もう駄目かもしれません」
「え……? 琴、今なんて」

 琴を逃がさないように抱き締めた加瀬(かせ)が、彼女の言葉を聞いて腕の力を少しだけ弱めた。今ならこの束縛から逃げることも出来ると気付いたが、琴はあえてそれをしなかった。
 一緒に過ごした時間は決して長くないのに、自分にとって加瀬が特別で他の誰にも渡したくない存在だと分かったから。いつものように物分かりの良い琴ではいられない、我儘だと言われてもどれだけ自分には加瀬が必要なのかを伝えたかった。

 加瀬も全てを話すと言ってくれたのだから、琴も彼に本音をぶつけてみる勇気を出したのだ。諦める事も出来ない、そんな想いを教えてくれたこの人に。


< 175 / 237 >

この作品をシェア

pagetop