スパダリ外交官からの攫われ婚
攫われて見つめ合えば幸せで


 ……母が生きていた頃は幸せだった。楽しい会話と彼女が作る美味しい食事、両親の優しさと愛情を一身に受け(こと)は健やかに育っていたのだ。
 そんな母が病で倒れたのは、旅館の経営がやっと軌道に乗ってきた頃だっただろうか。

「お母さん、またお腹が痛いの? 今日もベッドでおねんねしてる」
「そうだね、お母さんをもう少し寝かせてあげよう? 琴もいい子で待てるだろう」

 幼かった琴には母が何故ずっと眠ってばかりなのか分からなかった。いつも元気だったはずの彼女が、少し塞ぎ込むようになってからしばらくした頃……母は少し離れた大きな総合病院に入院する事になった。
 その頃にはもう彼女が余命宣告されていたと琴が知ったのは、それから十年以上経ってからの事だったが。

 末期の癌、だったそうだ。旅館の経営で忙しく無理をして体の不調を誤魔化していた彼女が、病院での検査を受けた時にはもう手遅れだったらしい。
 優しい母の起きている時間が日に日に短くなる、話したいこともたくさんあるのに彼女はすぐに疲れて眠ってしまうのだ。

「お父さん……お母さん、いつお家に帰ってくるの?」
「うん、琴は良い子だからちゃんと待ってられるね」

 琴が必要以上の我慢を覚えたのは、多分この頃からだろう。自分が良い子でいれば、また母と笑顔で暮らせるんだと信じたかったのかもしれない。

 ……そんな琴の願いは叶う事なく、家に帰ってきた母はもう二度と彼女に微笑んでくれることはなかったが。


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