ファム・ファタール〜宿命の女〜

 そろそろ行ってくるね、と亜美ちゃんに告げて向かった公園は、狭く鬱蒼と草が生い茂っていた。遊具も錆び付いており、手入れが行き届いていないことが一目瞭然である。
 交通量のそこそこ多い道路に面しているからだろうか、それともここに来るまでにあった大きな公園の方に人が集まるからだろうか。静まり返った公園の薄汚れたベンチに腰を下ろす気にはなれず、黄昏時の、夕焼けのオレンジと日没前の名残りの青色が混ざった空を見上げた。
 ま、今から告白をしようというのだ。人が居ないに越したことはない。
 私は誰かに聞こえてしまいそうなほどドキドキと拍動する心臓を、ぎゅっと押さえた。
 告白なんて初めてだ。だけどやるしかない。何かを成し遂げるためには一歩踏み出すしかないのだ。
 私が決意新たに深く息を吸った時だった。

「ごめん、お待たせ」

 颯爽と現れた洗井くんの姿に息が止まる。校外で見る洗井くんの破壊力を侮っていた。陰鬱とした公園が一瞬でパラダイスに早変わり。私のために時間を割いてくれたこと、その事実だけで胸がいっぱいになる。
 「来てくれてありがとう」と洗井くんに手を振り返しながら、一歩足を進めたその瞬間。生い茂った草に足を取られたのか、小石に躓いたのか、私は見事に、ずどんと音が立ちそうな程豪快に転けてしまった。
 え?何が起こった?と情報処理が追いつかなかったのは、どうやら私だけであった。私が起きあがろうとするより早く、洗井くんが「大丈夫!?」と焦った声を出しながら駆け寄ってきてくれる。もう、消えたい……。なにも今日、なにも今、転けることはないではないか。
 恥ずかしさを誤魔化そうと精一杯の笑顔を作り立ち上がる。

「えへへ、大丈夫!私、ほんとよく転ぶんだよねぇ」

 制服についた汚れを手で払いながらそう言った私を見て、洗井くんは「あ、」と僅かに声を上げた。洗井くんの視線を追う。

「あ」

 私も同じ反応をした。薄暗い中、よく目を凝らせば、そこには擦りむけて薄っすらと血が滲んだ膝小僧。恥ずかしさが勝っていたのだろう。指摘されるまで痛みなど感じなかったが、気づいてしまえばそこはジンジンとした鈍い痛みを訴えてくる。

「あはは、これくらい大丈夫」

 無理に笑顔を作ってみせたが、どこに膝から血を流しながら告白する人がいるだろうか。私の怪我に気づいてから、俯いたまま反応を示さなくなった洗井くん。
 もちろんこの告白で付き合えるだなんて思ってはいなかった。だけどこれはあんまりじゃなかろうか。意識してもらうどころか恋愛対象外になってしまったんじゃ……そこまで考えて、自然と涙が溢れ出しそうになる。
 泣いちゃダメ。ここで泣いたら洗井くんに迷惑かけちゃう。私はその気持ちだけで、今にも溢れ落ちそうな涙を堰き止めた。
 
「ふぅ……ベンチ座った方がいいよ」

 深く息を吐いた洗井くんが顔を上げ、私に笑顔を見せながら言う。最初は薄っすらと滲んでいただけの血が、今は一筋垂れ始めていた。たしかにこれは一度拭いた方が良さそうだ。
 だけどそれより。「洗井くん大丈夫?具合悪い?」と心配してしまうほど、洗井くんの額には脂汗が滲んでいた。私より洗井くんの方が余程辛そうだ。洗井くんは「大丈夫」と言うが、全く大丈夫じゃないと思う。
 私が戸惑っていると、再度「ベンチ、座って」と洗井くんが口にした。有無を言わせないほどの強い声に私は従うしかなく、ベンチに腰を下ろす。
 今日は告白なんてしてる場合じゃなさそうだな、と洗井くんが纏う、張り詰めた空気を感じながら思った。
 
 ウェットティッシュで血を拭こうと通学カバンを開けると、洗井くんが唐突に私の目の前に立った。なんだろ?近い距離に戸惑う。

「どうしたの?」

 ウェットティッシュを握り締めたままそう聞くが、洗井くんは答える素振りを微塵も見せず、徐に地面に膝をついた。
 え?え?理解が追いつかない私をよそに、洗井くんは「ごめん」とつぶやく。なに?何に対してのごめんなの?そんなとこに膝ついたら、土で制服汚れちゃうよ?
 私はさらにパニックに陥った。もう膝の痛みなど遥か彼方である。

 ゆっくりと首を傾けた洗井くんの、上下のバランスがとれた厚さの唇から、ちらりと赤い舌が覗く。あ、舌だ。
 私がそれを認識した瞬間、その赤い舌がベロリと、躊躇うことなく私の膝を舐めたのだ。
 人間、本当に驚くと声も出ないのだ。かちこちに身体が固まったまま、私は無心で洗井くんを見ていた。何度か舌が同じ動作を繰り返す。それは膝を舐めているというより、滲んだ血を舐めとっていると言った方が正しかった。
 
 どれくらいそうしていたのだろう。きっと時間はそれほど経っていないはずだ。しかしいくら夏といえど、辺りは真っ暗になっていた。
 徐々に暗くなっていった為か、周囲の暗さの割に洗井くんの表情はよく見えた。
 恍惚。彼はひとしきり私の膝の血を舐めとった後、誰かに心を奪われたような、無我夢中で気持ちよさを感じているような、そんな表情を私に見せた。
 それは今までに見たことのない洗井くんだった。私は、気持ち悪いとか怖いとか、そんなことじゃなくて。ただ、綺麗だと。恐ろしいほどに綺麗だと、そう思ったのだ。
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