ココロの距離 第2話 - 桜降る頃 -
第3章:わからない気持ち

 ……どこかから見られている気がする。
 今日何度目かの気配に、彩乃は周囲を見回した。
 数百人が着席できる大講義室では、文学部教授による模擬講義が先ほど終わったところだ。参加者が順次席を立ち、学生の誘導にしたがって出口から外へと向かっている。
 10月下旬の晴れた日曜、K大では受験生を対象としたオープンキャンパスが開催されていた。各所で入試説明会や教員・在学生による講演会などが行われる中、多くの高校生が、そして保護者か学校の先生らしき人々も来訪している。
 彩乃は、模擬講義参加者の案内・誘導役に狩り出されていた。講義を行うのが演習の担当教授で、どうしても必要な人数が集まらないから手伝ってほしい、と数日前の演習の時間に頼まれたのだ。他の学生にも声をかけたが、皆それぞれ予定があって断られたという。
 そこまで言われてしまうと、手伝えませんとは言えなかった。幸か不幸かたまたまサークルの練習もバイトも休みの日で、断る口実もなかったのだ。
 ──目の前を通る高校生を誘導しながら、彩乃は気配の出どころを探す。こちらに向いている視線はいくつかあれど、自分を見ているのかどうかの判断はできなかった。
 今朝から何度も、同じような気配を感じて落ち着かない……というより、ちょっと気味が悪かった。近づいてくればまだ対処のしようもあるかなと思うが、本当にただ見ているだけという感じは逆に不安になる。相手の正体も意図もわからない状況では。
 いっそ気のせいであってくれればいいのだけど、そう割り切るには回数が多かった──加えて、辺りを見回すたびに、必ず目に入る人物がいるのだ。今も、誘導される順番を待つ参加者の中に姿がある。
 その、高校生らしき女の子に気づいたのは、気配を感じた3度目か4度目かだった。見つけた時には視線をこちらに向けていないものの、彩乃から遠からず近からずといった場所に必ずいた。偶然と考えるには連続しすぎているのだが、明らかに知らない子なので、彼女が視線の主だとしても、その理由は全く見当がつかない。
 一日中そのことを考えながら過ごしていたので、誘導と会場の後片付けが終わった頃には、必要以上に疲労を感じた。教授や他の学生は、6時頃にもう一度集まって飲みに行こうかと話していたが、彩乃は遠慮することにして一足先に控え室を出た。
 まだ4時前だったが、空はすでに夕方の色になりつつある。暗くなる前に買い物して帰れるかな、と夕食の内容などを考えかけた時、声をかけられた。
 振り向いた先、大講義室のある二号館の出入り口の近くに、一人の女の子。彼女の服装に彩乃はすぐに思い当たった。今日一日、何度も見かけた女子高生であることに。
「瀬尾彩乃さんですよね?」と確認形で尋ねられ、思わず身構えた。しかし相手が「あた──わたし、御園くんの同級生で、大垣まなみっていいます」と続けたので、いくぶん警戒を解いた。
 とはいえ、すぐに違う疑問が湧き上がってくる。
 (宏基の同級生がなんでここに?)
 順当に考えればオープンキャンパスへの参加だろうし、実際そうなのだろうけど、なんとなく彼女が一人でいることに違和感を覚えた。ふと思いついて尋ねる。
 「もしかして、宏基と一緒に来てる?」
 「いいえ、わたし一人です」
 まなみの返答は素早く明快だった。彩乃も、聞いてはみたものの、宏基が来ていないはずというのはわかっていた。本人が「その日は模試を受けに行くから」と前々から言っていたからだ。
 1ヶ月前のあの日以降、宏基は時々電話をかけてくるようになった。たいていは週末で、大学のことを中心に10分か15分ほど話す。一度会話に割り込んできた叔母が(どういう状況でか、宏基の携帯を横から奪い取ったらしい)、最近は別人みたいに成績が良くなってねぇと嬉しげに話していたから、勉強の方もずいぶん頑張っているらしい。
 まなみはこちらをまっすぐに見据えている。そのやけに真剣な、かつ戦闘態勢のような雰囲気から、彼女は宏基が好きなのだなと感じた。そして、もしかしたら、宏基が彩乃に対して「告白めいた発言」をしたことも聞いたのかも知れないと。
 「あの、少しだけ時間いいですか。お話したいことが──御園くんのことで」
 正直、彩乃は気が進まなかった。朝からの執拗な視線は彼女だったのだろうかと思うと、あまり愉快でないことを言われそうな気がしたからだ──けれど、まなみが思い違いをしているのなら、それを正しておきたいという思いもあった。
 「少しならいいけど……喫茶店にでも行く?」
 「いえ、そのへんでいいです。すぐ済みますから」
 まなみが「そのへん」と言いながら指したのは、建物を出て少し先にある木製のベンチだった。
 陽はだいぶ傾いていたが、沈むまでにはまだしばらく間があるだろう。示されるままに彩乃は、まなみと並んでベンチに腰を下ろす。
 「わたし、御園くんが好きなんです」
 座るやいなや、まなみは言った。けど、と間髪入れずに続ける。
 「あいつ──御園くんは、あなたのことが好きだからわたしとは付き合えないって言いました。瀬尾さんはどう思ってるんですか、彼のこと」
 一息に言いきられた内容は、ほぼ彩乃の予想通りだった。まなみはちょっと見にも快活そうで、可愛らしい子である。こういう子が、しかも1人や2人じゃない人数が宏基にアプローチしているのだろうな……と思うと、落ち着かない気分になった。その理由を考える前に、彩乃は口を開く。
 「どうって、普通に従弟だと思ってるけど」
 「普通に? ……つまり、異性として意識してないってことですか」
 「意識もなにも──宏基は弟みたいなもんだから」
 「ほんとに全然、それ以外に考えてみたことはないんですか?」
 まなみは問いつめてくる。その迫力に気圧されながらも、彩乃は答えるべきことを答えた。
 「ないわよ。だって考えようもないし……確かに、彼女になってほしいとか一度は言われたけど、あれはたぶんなにか勘違いしてるんだろうと思うから。もうちょっと思い込みが冷めたら、周りに可愛い子がいっぱいいることに宏基も気づくだろうしね」
 そう彩乃が言い終えると、まなみは急に顔をうつむけてしまった。何事か考えている様子に「どうしたの」と声をかけようとした時、
 「そんなの、御園くんがかわいそうです」
 彩乃を振り仰ぎ、怒ったような声でまなみは言った。
 「え……?」
 思っていたのと全く逆の流れに、彩乃は戸惑う。
 まなみは、彩乃が宏基を特別に見ていないと聞いて、安心するのではなく怒っている。どういうことかと思う間もなく、まなみが言いつのった。
 「だって、あいつはあんなに瀬尾さんが好きなのに──わたしが告白した時、わたしだけじゃなくて、彩姉以外の誰ともつき合う気はないって、そう言ったんですよ。それでもわたしは諦めたくなくて、もう1年以上頑張ってるけど……でもダメなんです。他にもあいつを好きな子はいっぱいいるけど、みんな同じように断られるって……それぐらい瀬尾さんが好きなんですよ?」
 いったん言葉を切り、
 「なのに、肝心の瀬尾さんがそんなんじゃ、あいつが報われないじゃないですか」
 そう続けたまなみの声は震えている。泣き出しそうにも聞こえた。
 「もっと真面目に考えてあげてください。できたら好きになってほしいけど、どうしてもダメならせめて、ちゃんと正面から振ってあげてください。わたしが言いたいのはそれだけです」
 そこまで言うなり唇を噛んで、まなみは立ち上がった。早足で去ろうとするのを彩乃は呼び止める。しかし言うべきことがまとまっているわけでもなかったので、困ってしまった。
 しばし考えた後、
 「……えーと、どうしてあたしのこと知ってたの? 名前はともかく顔とか、今日のこととか」
 最初に気になっていたことを口に出す。まなみは半分だけ顔を振り向かせて答えた。
 「──友達のお姉ちゃんに同じ女子高だった人がいたから、卒業アルバム見せてもらいました。今日は単純に見学に来ただけで、見つけたのは偶然です」
 感情を抑えた声で言って、今度こそまなみは足早にその場を離れていく。
 彼女の後ろ姿が視界から消えても、彩乃はしばらくベンチに座ったままでいた。あたりが薄暗くなってきた頃にようやく立ち上がり、正門へと向かって歩き始めた。
 ……まなみの言ったことが、どうにも飲み込めなかった。つまり、宏基が本気だということが。
 8月のあの日以来、それらしいことは一度も言われていない。あれは冗談ではないのかもと確かに少しは思いもしたけど、彩乃が受け流してしまった後は何も言わなかったし、その後も……先月会った時だって、何事もなかったみたいに平然とした顔をしていたのに。
 そこまで考えると、ついでに宏基に言われた言葉まで思い出してしまい、顔に血がのぼってきた。
 奈央子のように多くはないものの、告白されたことは何度かある。結果的には全員断ってきて、誰ともつき合ったことはないのだが──その数回のどれよりも、宏基に可愛いと言われた時の方がドキドキした。異性に面と向かってそう言われたのは、実は初めてだった。
 あの時は確かに嬉しかった。自分が美人だとうぬぼれたことはないが、周りの目線は奈央子の方に集中するのが当たり前になっていて……そのことが、女として全然気にならなかったと言えば嘘になる。
 けれど彩乃は本当に奈央子が好きだし、奈央子もそういうことを全く鼻にかけない性格だから、自分がコンプレックスみたいに感じているのはバカみたいだと思い、普段は考えないように──忘れるようにしている。
 宏基の言葉は、まるでそれを察して言ったかのようにも聞こえた。あの言い方は、彩乃の自尊心を的確なポイントで刺激してくれたのだ。
 しかし相変わらず、それ以降に変化があるわけでもない。急に電話してくるようになったとはいえ、話す内容は受験とか大学のことがほとんどである。向こうが何も言わないのに、こちらから、あの発言はどういうつもりだったのかとか切り出すのは難しかった。一番最後に話した昨夜も、結局はいつもの話題に終始していたし、今日の手伝いに彩乃が行くことを話しても、宏基は『そうなんだ』と言っていただけだった。
 正直、よくわからない──宏基の気持ちも、自分自身がどう考えているのかも。
 ……自分は、どうしたいのだろうか。
 奈央子に話してみても、同じように言われた。
 『結局、彩乃はどうしたいの?』
 親友のその問いに、彩乃ははっきりと答えられなかった。本当に、どうしたいのか──これからどうするのか。
 『はっきり聞いてみればいいじゃない。彩乃らしくないよ』
 とも言われた。自分でもその通りだと思う。どう考えても、自分らしくない。
 なのにいまだに聞けずにいる……宏基の同級生と話をした日から、もう2ヶ月は過ぎたというのに。
 その間、何も考えなかったわけでは当然ない。というよりも、意識しつつあることをかなり自覚はしている。週末の電話は続いていて、近頃はそれを心待ちにしている自分がいるのもわかっていた。たまにいつもより時間が遅いと気になって、こちらからかけてみようかと思うぐらいだ。
 けれど宏基は相変わらずだった。他の話題は普通に話すが、同級生の女の子──まなみが言ったようなことに関しては一言も口にしない。彩乃が正月帰省している間に一度訪ねてきたものの、家族がいたこともあって(特に母が宏基を独占したがって)、逆にあまり話さなかった。見送りに出た時にやっと二人きりになったが、宏基は『受験頑張るから』とだけ言ってさっさと帰ってしまった。
 あまりの平静さ、あっけなさに、やっぱり何かの間違いなんじゃないかという疑問を消し去れない。もしその疑問が正しかったら、無駄に意識した自分が本当にバカだと思ってしまうから……そう思いたくないから、確認することを避けている。
 そしてもうひとつ──宏基を意識し始めたのを自覚したあたりから、どういうわけか、奈央子と柊が必要以上に気になっている。二人が仲良くしている様子を見るのが嬉しいのと同時に、心のどこかで苦い思いを感じている。ほんの少しではあるのだが、彩乃を動揺させるにはそれで充分だった。今まで、一度もそんなふうに感じたことはなかったからだ。
 (だってもうとっくに、諦めてるんだから)
 ──そうであるはずだった。

 1月も終わりに近くなったある日、奈央子は5分前になっても2時限目の教室に現れなかった。
 直前に他の講義がある場合はともかく、そうでなければ、例によって10分前ぐらいには来て席に着いているのが普通な、真面目な親友なのである。まして今日は試験前の最終講義だから、奈央子がサボるとは到底思えなかった。
 おかしいなぁ、と思っているうちにも時間は過ぎて、講義開始2分前になった。その時、入り口から駆け込んでくる奈央子の姿が目に入った。彩乃はすぐに立ち上がり、手招きをする。
 息を切らしながら近づいてきた奈央子のために席を詰めながら、彩乃は聞いた。
 「どうしたの、遅かったじゃない」
 「うん、ちょっと……出がけにゴタゴタして」
 そう答える奈央子の様子は、一見すると平静だったが、
 「ね、何かあったの?」
 具体的にどこがどうとは言えないものの、やけにご機嫌というか、生き生きとしている感じがした。
 「え? 何かって」
 「んー、なんていうか……すごーくいいことがあったみたいに見える」
 「……えっ」
 と、奈央子は妙に動揺した調子で言ったきり、何故だか言葉を続けない。それどころか、黙ったままふいと顔をそらし、うつむいてしまった。
 (……?)
 しばし疑問符が浮かんでいたが、奈央子の頬がすうっと赤く染まるのを見て、彩乃ははっとした。
 自分でもその変化に気づいたらしく、奈央子は頬や口にしきりに手を当て始める。赤くなるのを抑えようとしているようだが、余計に増すだけだった。
 一度その可能性に思い至ると、他にも気づくことがある。かすかに漂ってくるシャンプーらしき匂いとか、左手にはめたままのリングとか──おととしのクリスマスイブに柊からもらったもので、なくしたら嫌だからと、少なくとも大学に来る時にしてくることはこれまでなかった。
 奈央子と柊の誕生日は2日違いで、昨日はちょうどその間の日だったはずだ。だから去年と同じく、柊の家で一緒に祝うのだと奈央子が言っていた。
 急にこちらまでドキドキしてきた。顔を近づけ、なるべく声を落として彩乃は尋ねる。
 「えっと、ひょっとして……」
 その先はどうも具体的に言いにくい。考えた末に「……やっと?」とだけ口にした。
 それで通じたらしい。奈央子はうつむいたまま上目遣いに彩乃を見て、こくりと頷いた。その途端、一気に耳まで真っ赤になる親友を目にして、
 「──うわぁ」
 思わずそう呟いてしまった。
 付き合い始めて1年ちょっと、見るからに仲の良い二人が、実はキス以上がまだなことを彩乃は知っていた。
 夏休みの旅行の時ですら『なんか、そういう雰囲気にならないんだよね』と奈央子は笑いながら言っていたものだ。その手の話題が出る時はいつもそんなふうで、けれど全然不満そうではなかった。一緒にいるだけで十二分に満足している──というのが聞かなくてもわかる微笑みだったから、彩乃も何も言わずに見守っていたのだ。
 しかしついに昨日は「そういう雰囲気」になったらしい。
 当然、祝福の言葉を口にしようとして……なのに彩乃は今、一言も言えないでいた。
 もう一度、よかったねと言おうと努力するが、どうしても口に出せない。
 心の、ずっと奥底にある思い──ここ何ヶ月かの間に、急に表面へ浮かび上がるようになった苦く重たい気持ち。それが彩乃の言葉を喉で引き止めている。素直に、一緒に喜んであげることを良しとしないでいる。
 その思いが、漠然とだが会話の最初の方──二人の「進展」に気づいたあたりから、今までになく大きくなっていることに、彩乃は気づいていた。
 ……気づいてはいたが、無視しようとしていた。
 かなり沈黙が長かった気がするが、実際はさほど経っていなかった。彩乃が自分の反応に焦り始めた頃、2時限目開始のチャイムが鳴ったからだ。
 「なに、やっぱり、誕生日だから気分が盛り上がっちゃったとか?」
 チャイムの音にかき消されそうな小声で、ようやく尋ねる。
 「そういうわけじゃないけど──でもそうだったのかな……うん」
 顔を赤くしたまま、呟くように答える奈央子は、その照れた様子が非常に可愛らしくて……今まで見てきた中で一番、嬉しくて幸せそうだった。
 「おめでとう、よかったね」
 彩乃はやっとそう言った。かすかに声が震えているのが自分でわかったが、奈央子は気づかなかったようだ。何の疑念もない様子で「ありがとう」と返してくる。
 湧き上がってくる笑みを抑えようとして、けれど抑えきれず口元をほころばせている親友に──彩乃は唐突に、胸の内が灼けるような思いを感じる。
 それが嫉妬だと気づいて、ひどく動揺した。
 (──なんで?)
 どうしてなのかわからない。
 奈央子たちの付き合いがうまくいくことを、誰よりも望んでいたのは彩乃自身だ。だから、そうなったからといって今さらショックに感じることなどないはずなのに。
 どうしてこんな、心が空っぽになったみたいな、何も考えられない心境になっていて……同時に、胸の奥が焦げつくように熱くて苦しいのだろうか。

 宏基の乗ったバスがK大前停留所に着いたのは、1時少し前だった。
 平日だが、すでに3年生は早めの期末試験期間に入り、今日が最終日である。その足で宏基は、最終的な下見のためにK大へと向かった。昨日受験票が届いたので、試験が行われる建物とかバスの時間を確認しておこうと思ったのだ。
 来週からは自由登校扱いになるので、来月上旬の試験日までにはまだ時間的余裕はある。けれど今日行くことにしたのは、早いうちに済ませておこうと思ったのと、大学も今日までが講義期間だと彩乃から聞いていたからだった。
 つまり、彩乃の顔を見たかったのだ。
 実は初めて待ち合わせもしている。彩乃は3時限目が空きで2時半過ぎまでは暇があるというので、宏基の試験が終わってからの時間を考えて、1時過ぎにと約束をした。
 少々……いや、わりと緊張している。
 電話で話すのはずいぶん慣れたが、直接会うとなると、いまだになんだか落ち着かない。表情や口調には出さないように最大限努力しているが、努力が実を結んでいるのかは正直よくわからなかった。
 正月に会った時にも、彩乃は時折不審そうな目でこちらを見ることがあった。そのたびに平静さを保とうとしていたが、果たしてうまくいっていたのかどうか……見送ってもらった時、彩乃に妙に意味深な目で見られて、我慢している台詞が思わず口に出そうになったけど、なんとか別の言葉に替えられて安堵した。
 ──もう一度自分の気持ちを伝えるのは、K大に合格してから。宏基はそう決めている。
 正門のところでいったん立ち止まり、ゆっくりと深呼吸をした。そうして目の前に見える、垣根に囲まれた広い芝生へと向かう。
 彩乃との待ち合わせ場所は芝生の中、正門に一番近い側のベンチと聞いている。該当する左右1つずつのうち、左側で彩乃はもう待っていた。
 近づいて声をかけようとして──数歩足を進めたところで止まってしまう。
 彩乃の様子がおかしい。
 膝の上に雑誌を広げ、それに目を落としてはいるけど、文字を追っている様子はない。同じ一点を見つめたまま、微動だにしないでいる。その、完全な無表情としか言いようのない顔を、宏基は2回見たことがある。けれどどちらの時も、今ほどに空っぽな感じではなかった──
 その時、学生が投げたフリスビーのディスクが、狙いをそれて彩乃の方へと飛んだ。誰かがあっと叫ぶ声で彩乃は我に返ったらしく、寸前で頭に当たりかけていたディスクを避ける。宏基はほっとした。
 直後、彩乃がこちらに気づいた。立ち上がり、垣根にぶつかって落ちたディスクを頭を下げる学生に返してから、宏基の方へ歩いてくる。
 「来てたの? なんで声かけないのよ」
 「……いや、ほんとに今来たところだし」
 「そう? まぁいいけど。んじゃ行こうか」
 何号館だっけ、と聞きながらも彩乃はすでに足早に歩き始めている。宏基は慌てて追いかけた。
 目当ての3号館は、9月に彩乃たちと会った場所に近く、すぐにわかった。その後「お昼まだよね」と聞く彩乃に連れられ、学内にあるステーキ料理店に入った。従姉がランチを二人前注文してから壁のメニューに目をやり、1200円という値段を見て驚いた。前にもおごってはもらったが、その時は普通の学生食堂であり、4・5百円ほどの定食だったからだ。
 なんで、と尋ねる宏基に、従姉は笑いながら受験前の激励だと答えた。その後も彩乃はやけによく笑い、料理が運ばれてきてからもよくしゃべり、肉や野菜の焼き加減まで指導してきた。
 確かにランチはおいしかったが、ゆっくり味わえたとは言えない。彩乃の様子が──明らかに、必要以上に笑顔でいようとしているのが、どうしても気になってしかたなかった。
 食事を終え、店を出たのは1時40分過ぎ。宏基は携帯の時計表示でそれを確認しながら、彩乃と並んで学生会館の廊下を歩く。4月の入学式翌日に行うという合唱サークルのコンサートについて話していた彩乃の言葉が、ふと途切れた。
 宏基はその隙を逃さなかった。
 「彩姉、ちょっと聞きたいんだけど」
 「ん?」と顔を上げた彩乃に、
 「今日なんかあったの?」
 間髪入れずに尋ねた瞬間、彩乃の笑顔がこわばった。しかしすぐに表情を整え、
 「別に。いきなりなに言うのよ」
 そう返してくるが、どう見ても笑顔はぎこちなく不自然だった。宏基は畳みかけて聞いた。
 「奈央子さんに関係すること?」
 今度こそ、彩乃は固まった。笑いが瞬時に消え、宏基を見上げる目は信じられないといったふうに見開かれている。
 「……なんで」
 ひどく呆然とした声音に、やっぱりそうなのかと宏基は思った。先ほどの空白の表情──あれに近い顔を見たのは2回とも、彩乃の親友の沢辺奈央子、そしてその彼氏のことを話していた時だった。だから、あの二人に関して何か、よほどの出来事があったのではないかと、ほとんど直感で思ったのだ。
「なんとなく──あの人の話をする時の彩姉って、いつもちょっと変だったから」
 正直に説明すると、彩乃はさらに目を見開いた。建物を出たところで立ち止まったまま、うつむき押し黙ってしまう。
 わずかに逡巡したが、思い切って宏基は言った。
 「あのさ、誰にも話したくないことかも知れないけど……一人で我慢してたら辛くない? 今の彩姉、ものすごく辛そうに見えるよ」
 ぴくりと彩乃は肩を揺らしたが、答えない。宏基は勢いで続けた。
 「もし、彩姉がよかったら……俺でもかまわないと思うんだったら、聞き役になるから。長くなってもちゃんと聞くから」
 そこまで言い終えて、彩乃の答えを待った。断られてもしかたないと思いつつ、主観的には長い(後で時計を見たら1分程度だった)沈黙を耐える。
 やがて、彩乃が再び顔を上げ、意識しているのかいないのか、すがるような目で宏基を見た。
 反射的にどきりとする。
 「……聞いてくれる?」
 彩乃の言葉にいくぶん驚きながらも、はっきりと頷いた。従姉は身振りで、宏基を学生会館前にある広場へ導く。
 気持ちよく晴れてはいたが、1月下旬である。時折吹く冷たい風のせいもあってか、いくつかあるベンチに人の姿はなかった。彩乃は近くの自動販売機で買ったココアの缶を手に、宏基には缶コーヒーを渡して、冷えたベンチに腰を下ろす。
 そうして、ぽつぽつと話し始めた。親友カップルが「ようやく」一線を越えた関係になったこと、それを聞いて嬉しいはずなのに素直にそう思えなかったこと──その理由が嫉妬らしいと気づいてひどく動揺したこと。
 「……あの二人、誰が見ても仲いいんだけど、そういうことには縁遠かったっていうか──ほんとに、一緒にいるだけで嬉しいって考えてる、今どき中学生でもなかなかいないみたいな、初々しすぎる感じで。でもそれでほんとに幸せそうだったから、あたしもほとんど気にしたことなかった──けど」
 彩乃は両手で挟んだ缶をぎゅっと握りしめた。プルトップはいまだ開けられていない。
 「いつかはそうなるだろうって思ってたし、早くそうなればいいとも思ってた。……なのに、実際に聞いたらなんか、妙にショックで……急に現実感ともなったっていうか、変に生々しい感じがしちゃったっていうか……それに、奈央子に焼きもちみたいな気持ちまで感じたりして。今までそんなこと一回もなかったのに」
 たぶんそれは厳密には違うだろうな、と話を聞きながら宏基は考えた──複雑な思いとともに。
 本人が気づいていないのかも知れないが、彩乃の中にはずっと、親友に対する嫉妬心があったのだろう。それが今日のことで表面化したというだけで。
 原因はこの場合、奈央子の「幼なじみの彼氏」としか考えられない──つまり、彩乃もその人物のことが、自覚しないながらも好きだったのだ。顔も知らない相手に、宏基はしばし強い嫉妬を感じた。
 好きだったからこそ、二人が深い関係になったと聞いてショックを受け、親友である奈央子に嫉妬した。自分の中の思いを押し隠しながら、宏基は注意深く口に出してみる。すると意外にもあっさりと、彩乃は「そうかもね」と返した。
 「中1の頃、好きになりかけてたのは確かだし……すぐに諦められたと思ってたのに、そうじゃなかったってことかなぁ……」
 後半を呟くように言い、再び沈黙する。手にしたココアの缶は開けられないままで、たぶんもう冷めてしまっただろう。宏基は新しいのを買いに行こうかと考えつつ、いったん彩乃から視線を外して──振り返って目にしたものに、心臓が飛び出すような思いをさせられる。
 彩乃の頬に、一筋の涙がつたっていた。泣いていることに気づいていないのか、従姉は缶を握りしめたまま、涙をぬぐおうともしない。
 代わりにぬぐってやり、抱きしめたい衝動に宏基はかられた。いや、半ばそうしようとして右腕を伸ばした……それから人目があることを思い出した。多い人数ではないが、場所柄、遠くないところを絶えず誰かが行き来している。
 けれど伸ばした腕を完全に引っ込めてしまうこともできない気分で……結局、遠慮がちに彩乃の左肩に手を置き、軽く叩いた。
 彩乃は驚いた顔で宏基を見ながらも、手を振り払いはしなかった。慌てた仕草でようやく頬や目元をぬぐうが、また新しい涙が生まれては流れ落ちる。
 それがおさまるまで、宏基はなだめるように彩乃の肩を叩き続けた。通り過ぎる通行人の視線は感じたが、もう気にはならなかった。
< 3 / 5 >

この作品をシェア

pagetop