リスタート〜『ココロの距離』後日談

〈1〉24歳・4月


 「なあ、羽村(はむら)じゃないか?」
 と声をかけられて振り向いた先には、見覚えのある顔があった。大学時代に同じサークルに所属していた、同期の木下である。
 「やっぱりそうか。久しぶりだな、何してんだ?」
 「会社がこの近くなんだよ。そういうおまえは……どこに勤めてたっけ」
 「俺んとこは隣の県だけど、今日はこっちの得意先に用事があって直帰するとこで──な、時間あるならちょっと飲まないか」
 大学を卒業してから3回目の春。
 羽村(しゅう)は営業社員として、今いる所からほど近い衣料品のメーカーに勤めていた。今日は仕事が早く終わったので、そのことを電話しておくかと考えながら歩いていたところに、横から木下に呼び止められたのだった。
 しばし携帯を見つめながら迷ったが、卒業以降はめったに会う機会のない相手だし、たまにはいいかと思い、木下の提案にうなずいた。
 最初に目についた居酒屋に入ると、中は満席に見えた。あまり期待せずに店員を待っていると、幸い2人分の空きはあったらしく、奥の席へと案内された。生ビールとつまみを数品注文し、互いの仕事の状況について、愚痴も含めしばらく話し合う。
 その話題が一段落し、会話がいったん途切れたところで、木下が思わせぶりな調子で切り出した。
 「そういや、こないだの飲み会で聞いたんだけど」
 木下が言う飲み会とは、3週間ほど前にサークルのOBOGで集まった時のことだ。柊にも当然連絡はあったのだが、当日は出張が入っていて時間までには戻れそうになく、参加していなかった。
 「なにを?」
 「望月(もちづき)さんが結婚するらしいぞ、7月に」
 その名前に、柊はしばらくジョッキを口に運ぶ手を止めた。
 同じくサークルの仲間で、高校の同窓生でもあり──2年ほどは付き合ってもいた、望月里佳(りか)
 別れる時、彼女はほとんど恨み言を言わなかったし、その後も卒業まで、サークル仲間としてはごく普通に接していた。後腐れのない別れ方だったとは思うが、彼女に恋愛感情を持てなかったことを申し訳なく思う気持ちは今でもあったから、里佳のことが話に出ると少なからず複雑な気分になる。
 今も、反射的に手が止まってしまった。木下の言ったことを頭の中で反芻して、ようやく内容を理解し、そして驚いた。
 「……マジで?」
 「おう、本人は来てなかったけど林さんが言ってたからな。間違いないと思うぞ」
 里佳と仲の良かった女子学生(今は当然社会人だろうが)の名前を出して、木下は聞いた限りの詳細を話し始めた。合コンで知り合った相手だそうで、3つ上の27歳。1年ほど前に付き合い始め、数ヶ月後には結婚を考えるまでになっていたらしい。里佳に彼氏ができた、という話は去年誰かが教えてくれた気もするが、その後のことは初めて聞いた。
 「先に惚れたのは相手の方だったらしいけど、何度か会ってるうちに望月さんもその気になったとかって……二次会には同期全員招待するから、会場探し張りきってるって聞いたな」
 「そっか。よかったな」
 「そうだな」
 しばし沈黙と、微妙ながらしみじみとした空気が互いの間に流れた。
 サークルの同期の大半は、柊と里佳の事情をある程度知っていた。自分から言って歩いたわけではなく面と向かって聞かれたこともなかったが、いつの間にか自然に広まってしまっていた。
 まあ二人とも同じ集団に属していたのだから当然ではある。しかし、そこに絡んでくるもう一人の影響も小さくはなかったと思う。当時の学内ではかなりの有名人だったから──と本人に言うと、今でも苦笑いを浮かべつつ否定するのだけど。
 「で、沢辺(さわべ)さんはどうしてんだ?」
 沈黙を先に破る形で木下が尋ねた。聞かれるだろうな、と思っていた矢先だった。
 「あー……まあ、普通に元気にしてる」
 先ほどの話題の後だけに、奈央子(なおこ)に関する話はやや歯切れが悪くなる。里佳に対して残る後ろめたさも作用しているが、それだけが理由ではない。
 「まだ結婚してないのか?」
 柊の左手を一瞥した目とその口調には、いくらかの非難が含まれていた。……そう来るだろうと覚悟してはいたが、いざ言われるとやはり苦い気持ちになる。
 「なにやってんだよ。まさかその気はないって言うんじゃないだろうな、今さら」
 酒の勢いも手伝ってか、木下の語気がいささか荒くなってきた。奈央子と付き合い始める前だが、木下がその頃彼女に惹かれていたことは、直接に聞かされて知っている。この様子だと、未練かどうかはさておき、今も奈央子には特別な思い入れを持っているらしい。
 相手の勢いに少々押されつつも「そんなわけないだろ」と返すと、木下はますます非難がましい目で柊を見た。そして、
 「だったらさっさと結婚しろよ。ぼやぼやしてるうちに他の奴に取られても知らねーぞ」
 決めつけるような調子で言われた台詞に、今度はすぐに言葉を返せなかった。

 翌日の夜。木下を覚えているかと尋ねてみると、奈央子はすぐにうなずいた。
 「確か、あんたと同じサークルだった人よね。昨日会ってたのってその人だったの」
 昨夜居酒屋に入る前に、知り合いと飲むから夕食はいらないと彼女の携帯にメールはしたが(先にかけた電話では留守電になっていたので)、慌てていたので誰なのかまでは書かなかった。今日会ってからも、奈央子は何も聞かなかったので、柊の方から話に出した──あのことを、彼女に報告する義務もあると思ったからだ。
 「でさ、その木下から聞いたんだけど」
 夕食の準備に動き回る奈央子がふきんを持って近づいてきたのを機に、いったん深呼吸をしてから切り出した。
 「結婚するんだって、望月が」
 テーブルを拭く奈央子の手が止まった。顔を上げてこちらを見る。少し驚いた表情のまま何度かまばたきした後、
 「いつ?」
 「7月って言ってた。……だから二次会の案内とかがそろそろ来るかも。サークルの同期は呼ぶらしいから」
 「そうなんだ。……よかった」
 言いながら奈央子は微笑んだ。やっと安心したというふうに。それを見て柊も、同じようにほっとした気持ちになる。彼女の性格からして、里佳のことはずっと気にかけていたに違いなかった。付き合うようになった経緯が経緯だけに、ある意味では、里佳が良い相手に出会うのを一番願っていたのは奈央子かも知れない。
 この機会に、一度聞いておくべきかとも思った。
 「──あのさ」
 と言いかけたのだが、「あ」と声に出したと同時に、奈央子が立ち上がって台所の方へ行きかけた。
 途端に気が挫かれてしまった。奈央子は律儀に気づいて振り返り、「なに?」と尋ねてきたのだが、
 「……あー、いや何でもない」
 言葉を出す気力を再度奮い起こすことができず、そう返さざるを得なかった。「そう?」と首をかしげたものの、さらに問うことはせずに台所へと向かう奈央子の背中を見ながら、柊は気づかれないようにため息をついた。
 彼女といわゆる恋人同士になってから、そろそろ5年半が経とうとしている。もともと幼なじみであるから付き合いそのものは四半世紀に近いわけで、だからつい錯覚を起こしてしまうのだが、5年半という時間も決して短くなどないことはわかっている。
 その間に大学を卒業し、自分は会社員に、奈央子は公立高校の英語教師になった。実家のある県ではなくこちらで採用試験を受けたので、彼女は今も学生時代と同じ女性専用マンションに住んでいる。
 しかし実際に帰るのは週に2・3日程度で、残りは柊の家で過ごしている状態だ。
 就職して半年ほど過ぎた頃、いくらか資金ができたのを機に、ワンルームから今の2DKに引っ越しをした。それを境に、奈央子がこちらの部屋で過ごす時間も長くなった。以前は泊まるとしても週末のみだったが、ここ1年ほどは、平日でも遅くなった時にはそうするようになっていた。もっともその場合、着替えるためにと始発が出る頃には帰っていくのだが。
 とはいえ、実質的には半ば以上、一緒に暮らしているようなものである。年齢その他の状況を考えても、結婚を意識しないと言ったら嘘だった。
 正直、引っ越す先に小さいながらも2DKを選ぶ際に、頭をよぎったことでもあった。けれどまだ就職1年目だしと、踏み込んで考えることは先延ばしにした。……それからもうすぐ2年。
 夕食をとりながら必要以上に視線を向ける柊に、奈央子は当然ながら気づいている様子だった。
 「ね、やっぱり言いたいことあるんじゃない?」
 一度はそう尋ねもしたが、柊が首を振るのを見て「……まあ、本当に何もないならいいけど」とつぶやくように言った後は、何も聞かなかった。
 明日は土曜日で、お互いに仕事も休みである。夕食の片付けを終えた後も奈央子は帰らず、そのまま当たり前のように泊まる流れになった。
 一緒にベッドに入ってからも、言うべきことを考え続けてはいたのだが、口に出す踏ん切りがつかないうちに奈央子は眠ってしまった。寄り添っている彼女の重みと、パジャマ越しに伝わる体温に心地よさを感じながら、そんな自分に対していくらかの自己嫌悪も覚えずにはいられない。
 奈央子と一緒にいるのは、とても気楽で落ち着くことだった。文字通り子供の頃から馴染んだ相手であると同時に、彼女が柊の好みや癖をよく知っていて、可能な限り合わせてくれるからだ。
 今の関係になってあらためて思ったのは、奈央子が非常によくできた、理想的と言っていいほどの女の子──女性だということだ。もともと美人ではあるが、24歳の今では大人びた雰囲気が加わり、学生時代よりもはるかに綺麗になった。年齢以上の落ち着きを感じさせるのは、教師という職業が関係しているかも知れない。教師としての彼女も優秀らしく、2年目の去年にはもう担任を任されていた。今年度も(クラスは別だが)引き続き担任になったとのことで、日々張りきっている様子である。
 そんな奈央子が恋人でいること、言いかえれば自分を好きでいるということが、時折ひどく奇妙に思える。彼女がかなり前から柊を想ってくれていたのは聞いているが、それほどの何かが自分にあるとはいまだに考えられなかった。落ちこぼれではなかったけど、奈央子に比べれば何もかも平凡な人間だと柊自身は思っている。
 しかし奈央子の態度は、付き合い始めた頃から今までの間、まるで変わりがない。都合がつく日は必ず部屋に来て食事を作ってくれている。その他の家事も彼女が進んでやってくれるために任せきりで、それが自然になってしまっているが、奈央子が決して暇なわけではないのは、持ち帰る仕事の量を見ればわかる。
 なぜそこまでしてくれるのか──つまり、どうしてそんなにも自分を好きでいてくれるのか。5年半も付き合っていて今さら何を、と他人には言われそうだが、しかし本気でそう考える時がある。
 付き合う前、奈央子の気持ちを知ったのは彼女の親友経由でだった。それ以後も、本人から直接に好きだと言われたことは、実は一度もない。
 だからといって、彼女の気持ちを疑うわけではないのだが……いつ突然に心変わりされても不思議ではないという思いは、いつの頃からか心の奥底にくすぶっていて、消えずに存在し続けている。
 ──もし、本当にそうなったら。
 自分はどうするだろう。彼女を忘れて、他の誰かを同じぐらいに想うことができるのだろうか。
 奈央子の寝顔を覗きこみ、頬に手を添えた。
 この部屋に奈央子が泊まる時、たいていは今夜のように並んで眠るだけである。それ以上のことになるのは、少なくとも自分たちの間ではかなり稀だ。
 初めてそうなったのも付き合い始めてから1年以上後のことで、それまでの間、二人きりで旅行して同じ部屋に泊まった時にさえ、まるでそういう雰囲気にならなかった。全く考えが及ばなかったわけではないのだが、彼女と一緒にいるだけで十二分に楽しかったので『まあ、いいか』といつの間にか思ってしまっていたのである。
 そして、いまだにその傾向は変わらない。こうして、すぐそばに奈央子の存在を感じているだけで、不思議なほど心が満たされる。たまに衝動があってもほぼキス止まりで、それ以上に関しては、数ヶ月の間が空くことも珍しくない。実際、最近そうなったのは1ヶ月以上前の話だ。
 ……今の状態が、良くも悪くもぬるま湯であるのは気づいている。いいかげんけじめをつけるべき頃合いであるのも。特に、年が明けて以降は──お互いの24歳の誕生日前後からは、ほぼ毎日考えていることだ。今さら木下に指摘されるまでもなく。
 しかし、今のぬるま湯がとても楽で心地よいことも確かだった。どんな形であれ、この状態を変えるには相当の気合いを入れなければならない。それは非常に面倒に感じるし、正直、怖くもあった。あまりにも長く続いてきたから、変化させること自体に少なくない不安を覚えてしまう。
 だが当然、いつまでも避けていられる問題ではない。木下が口にしたようなことが起こる可能性は、決してゼロではないと思っている。奈央子を信じられないのではなく、自分自身が信用しきれないからだ。何があっても彼女をつなぎ止めておけるかと聞かれたら、堂々とそうだと言える自信はなかった。
 そのくせ、いや、だからこそ、奈央子が離れていく可能性を想像するだけで背筋が寒くなる。失いたくないと、切実に思う。
 頬に触れていた手を伸ばすと、彼女の髪がシーツの上に広がっているのがわかる。数年前に一度短く切られた髪は、今では再び、かつてのように腰近くまでの長さになっていた。その髪ごと、柊は奈央子の頭をそっと胸に引き寄せる。
 ──言わなければいけないと、頭ではよくわかっている。失いたくないのならなおさらだ。なのに、口に出せない。自分の臆病さと優柔不断さに、闇の中でまた小さくため息をついた。
< 1 / 3 >

この作品をシェア

pagetop