リスタート〜『ココロの距離』後日談

〈2〉半月後


 そして、半月が過ぎた。
 相変わらず、例の問題に関しては何の進展も起こせていない。その間に里佳とその婚約者から二次会の招待状が届いたが、奈央子にも見せて「行ってくれば?」と言われた時にすら、自分たちに引き当てて話を切り出すことができなかった。
 いつも、今度こそはと思いながら帰るのに、奈央子の顔を見た途端、その話題に関してだけ口が貝のようになるのだった。……我ながら呆れてしまう。
 そして今日も、言う気持ちだけはあるのだが、結局また自己嫌悪を深めるだけで終わるかもと、すでにあきらめが入っている。同時にそういう自分を情けなく感じて、ますます墓穴を掘る心地がした。
 そんな気分で帰り着き、インターホンを鳴らした──が、応答がない。おかしい、とすぐに思う。
 会社を出る時、つまり1時間ほどに送ったメールに対し、奈央子からの返信は『もうすぐそっちの家に着くところ』だった。だから中にいるはずなのである。
 半ば無意識にノブに手をかけて回すと、ドアが開いたので驚いた。鍵をかけ忘れるなど、まるで奈央子らしくない。急に不安と焦りがこみ上げてくる。
 慌てて玄関に足を踏み入れた時、奥で何かが落ちて壊れる音がした。大きな音ではなかったが、不安を煽るには充分だった。
 「奈央子!?」
 呼びかけながら、玄関から一番近いキッチンに駆け込むのと同時に、奈央子の姿も目に入った。しゃがんだ姿勢で、床に散った卵の殻を拾い上げようとしている。先ほどの音の正体はそれらしいと、とりあえずは安心した。だが。
 「……ど、どうしたのよ」
 こちらを見上げる奈央子の顔は、妙に青ざめている。血相を変えて入ってきた柊に驚いた様子なのは納得できたが、尋ねる口調がどことなく、ぎこちなく聞こえるのが気になった。
 「どうしたって──チャイム鳴らしても出てこないし、鍵開いてるから、何かあったのかと思って」
 「え、閉めてなかった、わたし? そうだった?」
 「……大丈夫か、おまえ?」
 あまりに顔色が悪く見えたので、ごく自然に聞いたことである。なのに、奈央子は表情をこわばらせた。少しの間ではあったが、かなりあからさまに。
 「え……どうして?」
 言いながら奈央子は笑おうとした──ようだが、ひきつった作り笑い以上には見えなかった。そういう反応も彼女らしくなく、不自然だと思った。何か言いたくないことや知られたくないことがあって、それを隠すために必死になっているかのような……
 不意に、ある考えが脳裏に浮かんできた。
 まさか、と柊が思うより先に、奈央子が立ち上がる。
 「ごめんね、なるべく早く作るから待ってて」
 その言葉につられてキッチンのカウンターに目をやると、買ってきたらしい食材が袋やパックに入ったまま並べられている。食事の準備に手が付けられていた様子はなく、ふたが開いた状態の炊飯器の中も空だった。……彼女がここに着いてから、30分以上は経つだろうに。
 不審に思ったものの、どうしたのかとその場で口に出すことはできなかった。調理に取りかかる奈央子の後ろ姿を見つめながらしばらく考えるが、やがてあきらめてキッチンを出る。
 奥の部屋で着替え、テレビをつけたが、もちろん番組を観たいわけではない。静かな──正確には奈央子が料理をしている音だけが聞こえる中で、考え事をしたくなかった。内容が彼女に関する、かつ、できれば思い浮かべたくもないことであったから。
 だが完全に振り払うことはできず、「お待たせ」と奈央子が呼んだ時、一度目はその声で我に返り、考えに没頭していたと気づいたほどだった。二度目で慌てて振り返り、不安を押し隠しつつキッチン、正確にはダイニングキッチンへ向かう。
 テーブルには、オムレツと野菜サラダ、わかめときのこの和え物などが並べられていた。それが一人分なのに首を傾げつつもとりあえず食べ始めたが、気になっていまひとつ味がわからない。
 調理器具を洗い終えた奈央子が、お茶を入れた湯呑みしか手にせず席に着いた時、柊は箸を置いた。ごくたまに「ダイエット中」と言う時でも、奈央子が食事を抜くことは皆無である。世の一部の女性のような無茶は、彼女は絶対にしない。
 「腹減ってないのか?」
 「え、……うん、ちょっと食欲なくて」
 そう答える奈央子は、口調こそいくぶん普段通りに戻っていたが、顔色は相変わらず良くない。柊が今考えていることは別問題として、今日の彼女は体調自体良くないのではないだろうか。ひどくだるそうな様子でもあるから、風邪の引き始めかも知れないと思った。熱があるようには見えなかったが、念のため確かめてみようと、なにげなく手を伸ばす。
 次の瞬間、額に差し伸べられたその手を、奈央子は避けた。体を後ろに引き、そのまま勢いで立ち上がったために、椅子の音がやけに大きく響く。
 お互いの顔を見つめ合ったまま、沈黙した。戸惑いと気まずさを含んだ間がしばらく続く。
 「────あ」
 先に沈黙を破ったのは奈央子だったが、自分のとった行動にまだ呆然としているらしく、再び口を閉ざす。速いまばたきを繰り返し、そして突然に目をそらした。
 「…………ごめん、調子悪いからもう帰るね。後はそれだけだから自分で片付けといて」
 それ、で柊の前の食器を指差し、奈央子は慌ただしく──見ようによっては逃げるかのように、部屋を出ていった。柊も呆然としていて、呼び止めるだけの余裕がなかった。
 ──恐れていた可能性がついに現実になったのではないか、とその時の柊は考えた。それ以外に、あれほど奈央子の様子がおかしい理由を思いつけなかった。

 5月の連休明け、仕事の都合で母校である大学の近くに行った日、思いがけない人物と再会した。正確に言うなら、彼女とそこで行き会うこと自体は不思議でもなんでもないのだが、このタイミングで会うとは思わなかった。先日の木下と同じく、今日も相手の方から声をかけられる。
 「あれぇ? 久しぶり、どうしたの?」
 柊が正門前のバス停近くを通りかかったのと、そこにバスが停まったのはほぼ同時で、そのバスから降りてきたのが瀬尾彩乃(せおあやの)──奈央子の中学時代からの親友だった。5年半前のあの時、奈央子との間を取り持ってくれた彩乃は、柊にとっても恩人と言える相手である。
 「……って、その格好からしたら仕事か。平日だものね」
 スーツ姿の柊を見てそう言う彩乃は、今は大学院に在籍しているはずだ。卒論のテーマにした作品に「はまってしまったから」らしいが、奈央子に言わせれば「彼氏が卒業するまで大学にいたい気持ちも、何割かはあったんじゃないかなあ」ということだった。彩乃の相手は2歳下で、従弟でもあるのは柊も知っている。その「彼氏」も3月に卒業して、就職先の都合で遠距離恋愛になったらしい、と奈央子経由で聞いてもいた。
 当たり障りない会話の中で、つい口がすべった。
 「奈央子から、なにか相談されたりしてないか?」
 「え? 別に……そういえばここ半月ぐらいはメールだけで電話はしてないかな。なんで?」
 「……いや」
 と言ってみたものの、その後に続ける適当なごまかしの言葉が出てこない。先日以来、奈央子の言動の奇妙さはいまだに続いているのだ。
 世間は数日前までゴールデンウィークだったが、柊の会社も奈央子の学校も、休日及び勤務日は暦通りである。つまり長期休暇はないものの連休はあるので、普段より遠出もしくは1泊旅行をするのが数年来の習慣だった──去年までは。
 今年は遠出も旅行もしなかった。それだけではなく、連休中は一度も奈央子が部屋に泊まらなかったし、丸一日訪ねてこない時さえあった。その理由を本人は「中間テストの準備に手間取ってるから」と話していたが、少し時期が早いような気がするし、本当に手間取っていて忙しいのだとしても、休日に一度も食事を作りに来ないことはかつてなかったので、どうしたって変だと思ってしまう。
 さらに妙だと感じるのは、その食事である。このところ味付けがなんだかおかしい。味噌汁が微妙に辛いとか焼き魚の塩味が薄い気がするとかいった程度だし、毎回でもないのだが、しかし料理上手な奈央子にしては珍しいことだった。そしてそれを指摘すると、叱られた子供みたいに妙にびくっとして、一瞬表情を硬くする。すぐに普段通りの口調で謝りはするのだが、釈然としない思い、あれもこれも彼女らしくないという不安は深まるばかりの最近なのである。
 柊が黙ったきりなので、当然ながら彩乃は不審に思ったらしく、再度「なんなの?」と聞いてきた。
 「ケンカでもしたわけ?」
 話の流れからしてそう聞かれるのは当然である。しかし事情を話すことはためらわれた。もしかしたらと思うあまりに口をすべらせてしまったのを、柊は後悔していた。
 奈央子のことを彩乃に打ち明けたら、5年半前の「あの時」の再現になってしまう。今日ここで会ったのはあくまで偶然だが、危機的状況の打開に彼女を頼る点は変わりない。2度もそんな真似をするのは、いくらなんでも情けないだろう。
 そう考えてなおも黙っていると、彩乃がはーっと大きくため息をついた。そのわざとらしさには覚えがあるなとぼんやり思い、「あの時」に呼び出されて話をした際に似たことがあったのを思い出した。
 「……なんていうか、肝心なところで意思の疎通が足りないよね、あんたたちって」
 呆れたような彩乃の言葉に、そうかも知れないと今さらながら思う。なまじ、言わなくてもわかることが多いだけに、お互い言葉少なになる時もある。それを居心地悪く感じたりしたことはなかったが、たまたま今までは不都合が出なかったというだけなのかも知れなかった。
 「言っとくけど、あたしは奈央子からなにも聞いてないし、聞くつもりもないからね。気にならないわけじゃないけど」
 諭すような口調で彩乃は続けた。
 「もういい大人なんだから、ちゃんと話して二人で対処しないと。……いくら付き合いが長くてもね、話さなきゃわからないこともやっぱりあると思う」
 「──そうだよな。わかってる」
 柊は素直にうなずいた。言葉を惜しむつもりはないし、そもそも、今は惜しんでいる場合でもない。結果が悪い方へ転がるとしてもそれは自分の責任に違いないのだから、甘んじて受けるべきだろう。
 「なら、すごくおせっかいだと思うけど……」
 彩乃が、今度はややためらいながら、
 「問題解決したら、いいかげんプロポーズしてあげなさいよ、奈央子に」
 と言ったので、柊は言葉に詰まりながらも反射的に赤くなった。今まさに考えていたことだったからである。
 「そう言うそっちはどうなんだよ」
 「あたし? ……あたしは博士課程進んだところだし、向こうも就職したばっかりだし」
 言いながら彩乃もほんのり顔を赤くする。
 「あたしたちはあと2・3年かかるぐらいでちょうどいいの。そんなことより、羽村は奈央子とのことだけ気にしてればいいのよ。わかった?」
 指を突きつけられて断言された。照れまじりの口調とその勢いに苦笑しつつも、柊はもう一度はっきりとうなずいた。
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