walk along~『ココロの距離』後日談

〈5〉その日、雪を見て


 その日の午後、柊が会社へ戻った時、時計は午後2時5分前を差していた。今日は外へ出る予定はなかったのだが、11時過ぎに得意先から呼び出されて、急遽出かけたのだ。
 オーダーの内容変更を依頼され、20ヶ所以上にのぼる変更の説明を2時間近く受けたため、空腹も手伝ってへとへとである。納期1ヶ月前に、しかも年末年始を挟むこの時期に変更を受けるなど、面倒なことこの上ない。だが大口の得意先なのでたいていの無理には折れるしかないと、前任者から耳にタコができるほど聞かされている。たとえこれが半月前であろうと、要望の九割以上をかなえなければならない相手なのは承知していた。
 ひょっとしたら年末はギリギリまで出てこなければいけないかもしれない、と考えながら営業のフロアへ戻ると、唯一部屋にいた営業事務の女性が振り向く。同時にこう言った。
 「あ、おかえりなさい。さっき総務の人が探してましたよ」
 「総務? なんで」
 「さあ、私も小林さんから聞いたんで、はっきりわからないんですけど……電話があったみたいで」
 同僚の営業社員の名前を出して彼女は言う。その小林当人の姿がないのは、外回りに出たのだろう。
 「電話って、どこから?」
 「えーっと……あれ、どっか行っちゃったかも……すみません、このへんに書いといたんですけどわかんなくなっちゃいました。とにかく、戻ってきたらすぐ総務に連絡入れるようにって」
 ずいぶん焦ってました、と言う本人は、伝言が不確かであることに対していくらか申し訳なさそうではあるものの、さほど慌てている様子はない。入社2年目の彼女は、不真面目ではないのだが注意力に欠けるところがあり、時折こんなふうに伝言内容を中途半端にしてしまう。本人に悪気が感じられない分、自覚も充分ではなさそうだと思っていた。
 しかしそれについてどうこう言うのは自分の役目ではないし、今回の場合は総務に聞く方が早いはずだから、とりあえずの礼だけを口にして、手近の電話を使わせてもらう。
 内線番号を押し、電話を取った相手に名前を告げると、ひどく慌てた気配が伝わってきた。なぜか、数人のざわめきまで聞こえてくる。いったい何事かと不安を感じ始めた時、気配と同じぐらいに慌てた声で相手、おそらくは総務の女子社員が言った。
 「携帯持ってなかったんですか、何度もかけたのにつながらなくて」
 「え、──あ」
 言われて初めて、携帯の電源を今朝入れたかどうか定かでないことに思い当たった。
 「すみません、ところで、電話があったって」
 「そうなんですよ、昼前に警察から……ついさっきは病院からも連絡が入って」
 続けて教えられた内容に、柊は言葉を失った。

 病院に向かう途中で雪が降り始めたが、もとより柊にはそれを見る余裕も、気づくゆとりもない。タクシーが正面入り口の前に到着するや否や、料金を払う間ももどかしく飛び出し、建物の中へと駆け込む。
 受付で教えられた部屋番号を頼りに病室へと走るが、市内で一番大きいこの病院には知り合いの見舞いで数回しか来たことがなく、しかも学生時代のことだから記憶も曖昧だった。
 そのため、目的の棟によって使うエレベーターが違う構造にも慣れておらず、慌てるあまりに2度もエレベーターを乗り間違えてしまった。やっと正しい行き方を見つけて病室にたどり着いたのは、受付で尋ねてから約30分後のこと。
 「……大丈夫?」
 と、ベッドに上半身を起こした状態で言ったのは奈央子だった。真冬だというのに汗だくで、とんでもなく息を切らしながら戸口に寄りかかっている柊をしばらく見つめた後で。
 こっちの台詞だと言いたかったが、まだ息が整わなくて声が出せない。その時ようやく扉を開け放した状態であることに気づき、中に足を進めつつ、スライド式の扉から手を離す。一拍置いて、ガタン、とすぐ後ろでそこそこ重みのある音がした。
 個室の病室に入るのは初めてだ。思ったよりも狭い気はしたが、ベッド周りにはゆとりがあって、作り付けの戸棚や大部屋よりもサイズの大きい冷蔵庫がある。
 なおも息を切らしつつ窓際に近づき、2つ置かれている丸イスの片方を引き寄せて、柊はベッド脇に座った。
 「…………事故に遭った、って。けど迷って」
 かなり省略した説明だったが、伝わったらしい。ああ、と奈央子はため息のような声で言い、やや恥ずかしそうに笑う。
 「わたしじゃなくて、横断歩道で前を歩いてた人がね。曲がってきた自転車とぶつかりそうになって。なんとかどっちも避けたんだけど、その拍子に歩いてた人が後ろにちょっとよろけて、荷物多かったから、ぶつかった時にわたしが支えきれなくて」
 それで軽く尻もちをついた結果、陣痛が始まってしまったのだという。
 「あ、どっちも怪我はないのよ。ほんとに普通歩いててぶつかるのと同じ程度だったし。なのにわたしがこんなだったから間が悪いことになって、迷惑かけちゃった」
 たいしたことなかったのに、と微笑む奈央子は、表情に疲れた様子は残っているものの、口調も声もしっかりしている。つい数時間前に出産したばかりには、とても見えない。
 「ん、2時間ぐらいで生まれたから。めったにないような安産だって、先生に言われたぐらいだし」
 確かに、世間の基準からすると楽な方だったのかもしれないが、彼女にとってはさぞかし大変な2時間だったに違いない。その時に近くにいなかったどころか知りもしなかったことが、とても申し訳なく思えた。
 「……ごめんな、当日は付き添うって約束してたのに」
 「まあ、予定は年明けだったし、わたしだってそのつもりだったもん。予定通りいかなくたってしょうがないんだから、気にしないでよ」
 「けど、おまえが一人で頑張ってたのかと思うと、やっぱなんか悪くて──次は絶対一緒にいるから」
 勢い込んで口にした言葉に、奈央子は目を見張って、次いで顔を少し赤らめた。
 「……ちょっと、気が早すぎない?」
 と返されてやっと、自分の発言の意味に気づく。途端に照れが心臓のあたりから一気に上ってきて、ごまかすために思わず目をそらし、咳払いを繰り返した。
 奈央子も視線をあらぬ方向へ向けた後、別の話題を探すようにきょろきょろと病室内を見回す。その目が一点に留まった直後、「あ、そうだ」と、若干うわずった声がこちらに飛んできた。
 「ね、おなか空いてない? 冷蔵庫にたぶん、朝買った物が入ってると思うんだけど──おやつに食べようかなーと思って買ったパンとか。わたしは今日は食べられそうにないし」
 そういえば昼飯を食べそこねたままだったっけ、と柊が思い出すのと同時に、腹の虫が控えめながらしっかり鳴いた。奈央子がぷっと吹き出す。別の意味で恥ずかしくなったが、それで雰囲気がほぐれたので、良い方にとらえることにした。
 冷蔵庫の中身、菓子パンや牛乳などで腹の虫をなだめた頃には、外を眺める余裕ができていた。
 この辺りでは珍しいほど大粒の雪が、しんしんと降り積もり、景色の白さをさらに深めていく。同じく外を眺めていた奈央子が、呟くように言った。
 「大変だったけど、いいイブって言えるかな。いちおうホワイトクリスマスだし」
 「え、あ。そっか、今日って24日か」
 「なに、忘れてたの? ……うーん、日にちがわたしと一緒になったのはわかりやすいけど、今月じゃちょっとかわいそうだったかな」
 奈央子の誕生日は来月の24日だ。ちなみに、その2日後が柊の誕生日で、付き合い始めてからこちら、間の日に一緒に祝うことにしている。
 「なんで?」
 「クリスマスとかが誕生日って、あんまりありがたくないって言う人多くない? 高校の友達もそう言ってたし……あ、でも別々に祝ってあげればいいのかな。込みにされるのが嫌なんだったっけ」
 悩み始めた奈央子の姿は、当人がとても真面目なだけに微笑ましく見える。知らず誘われた笑いに、彼女は敏感に気づき、首を傾げた。
 「……なに笑ってんの?」
 「いや、別に」
 と返したものの、表情をあらためる気にはならなかった。そんなことを真剣に悩む、彼女の一生懸命さが可愛くて。……そういえば、恋人としての付き合いを始めたのもクリスマスイブだった。ちょうど6年前の夜。あの時も今日と同じように雪が降っていたっけ、と思い返す。
 懐かしい記憶に笑みを深める自分を見て、奈央子がさらに首をひねりかけたが、ふと何かに気づいたように柊の後ろ、病室の入り口の方へと視線を移す。その動きに従って柊も振り返ると同時に、扉ががらりと開いた。
 扉の向こうにいたのは女性看護師が1人、いや2人で、先に入ってきた方が体温計など器具を乗せたワゴンを押している。そして後ろにいる方は──
 「もうすぐ夕食ですよ、その前にバイタルチェックしておきましょうか。あ、こちらがお父さん?」
 顔を見て言われたにもかかわらず、誰のことかと一瞬思ってしまった。場と状況に気づいてからは急に落ち着かなくなった。緊張と照れと、湧き上がってくる嬉しさで。
 だが表面的には努めて平静を装い、奈央子が体温や血圧のチェックの後、もう一人の看護師が抱えていたものを注意深く受け取るのを見ていた。
 また後で来ますね、とにこにこと笑いながら二人が出ていく。扉が閉まるのを見届けるとすかさず柊は振り返り、身を乗り出した。
 ……初めて見る、今日生まれたばかりの赤ん坊。想像していたよりもずっと小さく、顔も手も赤い。そうつぶやくと「だから赤ちゃんて言うんでしょ」と間髪入れず指摘された。
 どこがどちらに似ているか、なんてことはまだ全然わからない、しわしわの顔。
 だがこの子供は確かに、自分たち二人の娘なのだ──赤ん坊を見つめる奈央子の優しい笑みと、まだ何一つ知らない子供の無垢な寝顔を見ていたら、胸が熱くなった。
 彼女たちのためならこの先どんなことでもする、そういう決意が自然と全身にみなぎってくる。父親になった実感を、今までで一番強く感じていた。
 「名前、どうしようか」
 奈央子に問いかけられて、はたと我に返る。
 そして、さんざん調べて考えた、いくつかの名前の候補を思い浮かべる。どれも最終的な決め手がなく、ひとつにはまだ絞れていなかったのだが──
 ふと、もう一度窓の方を振り向いた。
 外はもうかなり暗くなってきている。止む気配のない雪のせいもあり、景色はほとんど見えない。窓ガラスの角や縁に積もった雪だけが、室内の照明を反射して光っていた。
 雪が形作る模様は、見ようによっては何かの花のようでもある。そう思っている間にも繰り返し、大粒の雪が窓ガラスに音もなく当たり、結晶の形を散らせていた。その様子もどこか、小さな花がたくさん吹き付け、広がっているふうに見える。
 雪に目を留めたまま、柊は真剣に思い返した。全部の画数がよかったわけではない、けれど総画数はかなりの強運と出ていたはずの、ひとつの名前。
 子供と窓の雪を、交互に2回見て、決心した。
 「あのさ、思ったんだけど、────」
 名前と、それに至った理由を説明すると、奈央子も窓の方を振り向き、しばらく沈黙した。そしてこちらに向き直った時の彼女はまさに、花がこぼれるような笑顔になっていた。
 「それいい。すごく綺麗だし、可愛い」
 「そう思う? 姓名判断、全部が良くはなかった気がするけど」
 「いいじゃない、姓名判断もいろいろあるから絶対に確実な結果なんてないだろうし。そりゃ、いいに越したことはないかもしれないけど、悪くはないんだったら充分だと思う。それに今日にぴったり来るからわかりやすいし。ね? ゆかちゃん」
 と、早くも奈央子は子供に向かって名前を呼びかけている。その響きが、とても優しくて温かかったから、柊の中にほんの少し残っていた迷いも溶けるように消えた。
 娘への、最初の贈り物。それが彼女に幸せをもたらしてくれることを、心から願った。

 ──命名、雪の花と書いて「雪花(ゆか)」。


                             - 終 -
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