月のひかり

「あと三・四十分したら出かけるから。俺、風呂場に行ってるからその間に準備」
 準備しといて、と言い切る前に何か紗綾が言ったように思え、孝は「ん?」と聞き返す。かすれた声だったが、今度ははっきり聞こえた。
「……わたし、お風呂場の方でいい」
「え、……あ、そうか、わかった。好きに使っていいから」
 それ以上は何とも言えず、目をそらした。視界の端で紗綾が素早く動き、脇を走り抜けたのをとらえる。直後、ユニットバススペースの扉が閉まる音が響いた。
 ベッドの上にまとめておいた彼女の服が全部消えているのを確認して、息をつく。
 しばらく耳をすませていたが、聞こえてくるのはほとんど、狭いスペースで手足をぶつけているような音だった。水音は数回、洗面台で顔を洗うか何かしているような短いものがした程度だ。
 急に、様子をうかがっていることがひどく恥ずかしくなり、孝はテレビをつけた。他の音が聞こえなくなるよう、いつもより音量を上げて。
 二十分、いや三十分近く経った頃。背後に気配を感じて振り返ると、おそらくできる限りの身支度を整えた紗綾が、タオルケットを抱えて立っていた。
 丁寧に畳んだそれを差し出す表情は疲れきっていて、伏せた目にはまだ動揺の名残りと、不安。孝は気づかなかったふりを心がけることにし、何気ない口調で礼を言いつつ受け取った。
「出る前に、なんか食うか?」
「……帰ってから食べるから、いい」
「そっか。なら、ちょっと待っててな」
 音量を戻してからテレビを消し、戸締まりと火元の確認をした後、紗綾を促して家を出る。
 駅までの道のりはお互いに無言だったが、着いた頃にはとっくに九時を過ぎていた。普段より十分以上長くかかったのは、遅れがちな紗綾を待つために足を止め、追いついてきてからまた歩き出すことの繰り返しだったからだろう。
 そのことに紗綾が気づいた様子はなかったので、孝も何も言わなかった。今の彼女は、細かい時間に注意を払える心境ではないだろう。
 改札を通り抜け、紗綾の最寄り駅方面のホームに続く地下階段の手前で立ち止まり、振り返る。紗綾は一メートルほど間隔を空けて足を止めた。
 孝が見ていることはわかっているはずだが、ここまでの道中と同じく、顔を上げようとはしない。
 しかたないか、という思いとともに口を開く。
「じゃ、ここで。気をつけて帰れよ」
 と、自分が利用するホームに向かおうとした時、背広の袖が引かれた。
 紗綾が、泣き出しそうな顔で見上げている。
「…………ごめんなさい」
 迷うように動いた唇から、ようやく外に出された言葉は、胸の痛む響きをともなっていた。孝は、思わず肩を包もうとした手を直前で止め、紗綾の頭に置く。そして、あえて気軽な調子で、二度ほど軽くぽんぽんと叩いた。小さな子供に対するように。
「気にしなくていい。それより、体の調子がおかしくなったら、すぐ連絡しろよ」
 まばたきの後、紗綾はまた真っ赤になって目を伏せた。できる予防策は取ったが、万一のことがあれば責任は取るつもりだ──それが、たとえ自分のせいではなかったとしても。
 孝はもう一度、紗綾の頭を撫でるように叩いた。手の下に、少し癖のある髪の、乾いた感触。
 一瞬の後、電車到着のアナウンスが響き渡った。答えを返さないまま、紗綾は走り出して階段を駆け下りる。アナウンスはこちら側、孝が乗る側のホームに関するものだったのだが、乗るべき電車が到着して発車した後も、孝はそこから動かずにいた。
 とうに彼女の背中が遠ざかった、階段の下に目を向けたまま。
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