はるか【完】
憎悪
気づけば、日が沈んでいた。
もうオレンジ色は無くなり、黄昏時も過ぎ去ってしまった空の色は、紺色に近く。


ずっとずっと下を向いて手を握りしめていたら、どこからか歩く⋯こっちの方に近づいてくる音がして。




「──気ぃつけとけ、って言わなかったか」



聞いたことのあるその声に顔を上にあげれば、黒い髪の男が私を見下ろしていた。爽やかな顔とは、真逆の性格を持つ男。



ほ、だか⋯。

穂高晃貴。



「⋯なんで、いるの⋯?」



ここは西高の近くなのに。
あんまり穂高にとっては、近寄ら無い方がいい場所なのに。


「無視かよ」

「⋯穂高」

「ぶっせーツラ。顔死んでんじゃん気持ちわりぃ」



うざ。

真希ちゃんもどうして、こんな男を選んだんだろう。



「⋯私に、何か用?」

「俺が忠告してやったのに、こんなところでバカやってる女を見に来たんだよ」


バカって⋯。


「早く帰れ」


早く帰れって⋯、なにそれ、と、顔を下に向ける。

全く動こうとしない私に思いっきりため息を着く穂高は、「あのさぁ、」と、低い声を出した。



「お前が危なくなると真希も危なくなるわけ、そこんとこ何とかしてくれよ」

「⋯⋯」


ここに、穂高がいるなんて偶然なんてあるわけない。穂高はきっと、見てた⋯。

穂高じゃない。

もしかしたら別の人間が、私のことを見て穂高に報告したのかもしれない。それはつまり、私は穂高に見張られているってことで⋯。


「⋯じゃあこんなところにいないで、真希ちゃんの傍にいれば?」

「高島に会いに来たのか?」

「⋯ちがうし」

「無理だぞあいつは。諦めて帰れ」

「なんでそんなこと⋯あなたに言われなきゃならないの⋯」

「あいつは誰とも付き合わない」



ほんとに、ムカつく、この男。


すぐ傍で、穂高がしゃがみこむ気配がしたから、私は顔を少しだけ上にあげた。


性格の悪い男と、目が合う。


「⋯どうしてそう言いきれるの⋯」


良くんが、暴君だから?
女嫌いだから?


「1回、高島のそばにいたせいで、真希が拉致られた事がある」

「え?」


良くんのそばにいたせいで?
真希ちゃんが、拉致?


「あいつはそれほど危ねぇの」


危ない⋯。


「⋯あなたよりも?」

「俺と比べんじゃねぇよ、俺はタチ悪いだけ」

「⋯⋯」


タチ悪い⋯。
ほんとにそう思う。


「あいつはその拉致の経験があるから女を傍に置かねぇよ」

「⋯⋯」

「まあ1回くらいならヤラせてもらえんじゃねーの?股開いてみるか?」

「⋯⋯」

「お口にだしてーって」

「⋯良くんはそんな事しないし」

「分かってんじゃねぇか、帰れ」

「ねぇ」

「あ?」

「良くんが、あなたの所に入るって、ほんとう?」



私の言葉に、眉をひそめた彼は、冷ややかな目を私に向けると「お前もかよ」と、それを口にする。



「⋯なにが⋯」

「なんでそれを、高島本人じゃなくて俺に聞くんだよ」

「⋯」

「知るかよ」

「⋯」


あいつもかわいそーに。

そう言った穂高は立ち上がり、私を見下すように見つめてくる。



「──⋯あいつが俺んとこに入ったら、真っ先にお前を襲えって命令してやるよ」






やっぱり、そうなんだ。
あんなにも大事に思ってる真希ちゃんの友達の私を穂高は襲ったりしないだろう。
でも、そう言うってことは、あの話はデマ。

良くんは今のところを抜けたりしない⋯。

チームの中での、一匹狼の良くん。

味方がいない、良くん。



「そうだね、怖いし帰るよ、ごめんね」




ふふ、と、笑った私は立ち上がり、呆れた顔をして穂高を見たあと「じゃあね」と穂高に背中を見せた。



「お前、」その途中で彼に呼び止められ、軽く、後ろに振り向けばこっちをみている穂高がいて。


「誰かに何言われても、信じんなよ」


信じるな、誰に何を言われても。
良くんの事を、いい人だと知っている数少ない人物の一人。

わかってる、と。
それに頷いた私はその場から姿を消した。









──真っ直ぐ家へと帰っている最中、一瞬、誰かに見られているような気配がした。





その見られている気配は、〝穂高関連〟だと思った私は差程気にしていなかった。

それよりも、私の頭の中は裕太だった。
頭が冷えた今、スマホを見つめながらさっきはごめんなさい、と、連絡を取ろうと思った…。

でも、また傷つけてしまった裕太に連絡するのも、本当に失礼で。することが出来なかった…。



莉子から『どうだった?』と連絡が来た。

電話を繋げる私は、「怒らせた…、ごめん莉子」と返事をする。

『怒らせたって、また暴力されたんじゃないの?!』と言ってきた莉子に、本当に申し訳ないと思ってしまった…。


私のせいで、莉子にとって裕太は〝怒ると暴力をする男〟と植え付けてしまった。



『今度、潤と近くでいようか?』

「ううん、大丈夫…」

『そう?』

「ちゃんと2人で話し合う…」

『それで今日ダメだったんじゃないの?』

「……」

『大丈夫、そばにいるだけ、会話はきかない。やばそうになったら止めるだけだから。ね? 私から潤に言っとくから』

「でも…」

『明日、潤に裕太くん連れてきてもらえるか話してみる』




ほんとうにいいのだろうか、それで。

2人で話し合う事が、大事じゃないのか。

でもまた2人っきりだと、同じことをしてしまうような気がして…。



「うん、…ありがとう莉子…」


電話を切り、その30分後、ラインが届いた。


『会いたくないって言ってるらしいけど潤が無理矢理連れていくから放課後学校で待っててだって!』







そんな次の日の放課後、学校で待っている莉子のスマホに潤くんからラインが届いた。


「あと10分ぐらいで来るっぽい、校門で待っとこ」と言う莉子に頷いた私は、絶対に言い合いはしない、せっかく来てくれるんだから冷静に話し合おうと思った。



私の我儘の感情のせいで、裕太を傷つけ、莉子と潤くんまで巻き込んで。


あまり心は穏やかでは無かった。


でも、穏やかでは無いのは裕太の方で。


意気消沈している私に、「ほんと大丈夫?」と莉子が顔を覗き込む。


大丈夫、分からない。
でも裕太と向き合おうって決めたから。

向き合う…。これは向き合ってると言えるのか。会えたくないと言っている裕太を無理やり連れてきてもらって。
良くんが好きだから、告白したいがために、きちんと裕太と話し合うなんて。自分勝手もいいとこ。



だけど、



裕太に、1度は良くんとはもう関わらないって言ってしまった、から。嘘をついてしまったから。私は──…





莉子と校門の前で2人が来るのを待っている時、「4人で話す?」と莉子に言われたけど。

「大丈夫、2人で話し合うね。ごめんね」と顔を下に向けた。



「そう、……、遥はさ、裕太くんの許可貰ったら高島に告るわけ?」

「許可っていうか、」

「もう切ったら?裕太くん。遥が好きなのは高島なんだから。全くどこがいいのか分かんないけど。 今回の話し合いで上手くいかなかったらもう、ね」


切る…。


「ってか、もう別れてんじゃん。別れてるのに他の男に告る許可を元彼に得る、ってそれこそおかしいよね」

「でも、嘘ついたのは私だから」

「男と女の恋愛なんてそんなもんじゃん?」



私のことを慰めてくれる莉子に、「そうだね」と頷いていると、「あ、来たかも、」という声が聞こて。



その声に顔を上を向けたのが先か、
それとも莉子が「マジ……?」と、戸惑った声をだしのが先か。



その学ラン姿で、裕太か潤くんか、見間違えたらしい莉子は、「嘘でしょ」と声を出す。




──…学ランに、黒髪の、長髪。


どう見てもこっちに歩いてくるその人の目は、鋭く。

え、え、え?と、隣では莉子が、戸惑っている声を出す。

私の顔を見て、またその人の顔を見るのを繰り返している莉子は、「は、遥が呼んだの…?」と口にするけど。

全く、なにも、知らない私はただその人を視界の中に入れるだけ。

顔を、横にふったのかも、分からない。


真っ直ぐ。


校門の前にいる私たちの元へ歩いてくる彼は、私か、莉子を目の中に捕らえると、一段とその目を鋭くさせた。


その目を見て、分かった。

彼は、私たち、2人のどちらかに用があったのだと。それとも、2人共か。


心臓がバクバクするよりも、逆に心臓が止まりそうなほど静かだった。


なんで…っていう感情が、止まらない。



約、1メートルほどの距離。

まだ、帰っていない他の生徒の方からは「あれって、西高の──…」という声も聞こえて。


真っ直ぐ、その鋭い目を向けている彼が見ているのは、莉子ではなく。


どう考えても私だった。




「話がある」





そう、低すぎる声で言ってきたのは、待ち合わせしていた裕太でも潤くんでもなく。



私の好きな人だった。





長身で、細身。
綺麗なくせ毛のない髪、鋭い目付き。
裕太とは全くタイプの違う男…


「…聞いてんのかよ…」


眉を寄せ、どこからどう見ても苛立っている彼は、どこから出ているか分からないほどの低い声を出し。じ…と、私睨みつける。


声が出ない私に、「え、え。ど、どういう事…」と、ずっと戸惑っている莉子を無視する目つきの悪い彼は、「…話、あんだけど」と顎を使い、〝こっちに来い〟という合図をしてきて。



え…?


だから、どうしてここに、良くんが?


裕太と潤くんのはずでは?



「すぐすむ」



良くんはそう言うと、今度こそ私から目をそらし、学校の裏の方へと歩き出すから。

戸惑いが隠せない私は、その、進む1歩が、重く。



どういう理由があってか、私に会いに来たらしい良くん…。

理由は分からない。
分からない、けど。
私に用事があるのは、確かで。


「は、はるか、どうなってんの」


そんなの、私が教えて欲しい。
良くんの背中が少しずつ小さくなっていく。



「い、行かないとやばいんじゃない? 殴られるかも…」


良くんの外見に恐れをなしてか、莉子が震えた声を出す。
重い足のはずなのに。
1歩が、凄く、重かったはずなのに。
その1歩を踏み出せば、意外にも軽く。



「ちょ、ちょっと!!遥!!」



その後ろ姿を追いかける私に莉子が止めようとするけど、私の足が止まらなくて。



「ご、めん、すぐ戻る」



私なその背中を追いかけた。

最後では、どこに電話をしようとしてる莉子がいて。その電話の相手よりも、小さくなっていく背中が気になる私は、その背中を大きくなるまで追いかけた。




追いかけた、といってもすぐで。
振り向けばまだ視界の中に莉子が見えるほどの距離。というよりも莉子に声が届かないところで立ち止まった良くんは、鋭い目をして振り向いた。

長い距離を走ったわけじゃないのに。ただ軽く小走りで背中をおっただけなのに。良くんと目が合った私は、軽く息切れしていた。


ドキドキという心臓よりも、どうしてここに良くんが? どうして私に会いに来たの?

その気持ちが勝っている私は、会えて嬉しいなんていう気持ちはなく。


「お前、」と!良くんが薄い唇を開いて声を出した瞬間、肩が一瞬ピクリと動いた。



「まだ続いてんのか」


良くんは何を言ってるのか。
まだ続いてる?
何が?
なんの話。
主語なく全く意味が分からない私は、え...?と顔を傾けた。


良くんは眉を寄せ、もっと怖い顔になると、「嫌がらせ」と面倒くさそうにつぶやき。


嫌がらせ...?
なんの?

そう思ったけど、嫌がらせというその言葉で、思い出したのは裕太の元カノの話で。


迷惑電話のことを、良くんに相談したことを思い出す。



まだ続いてる?

ううん、続いてない。


だってあれは良くんが、注意してくれたから。

もしかしてそれを確認するために、わざわざ会いに来てくれたの?

そう思った瞬間、──とくん、と胸が高鳴った。

だけどそれ以上に、罪悪感でいっぱいになる。

もうすぐ裕太が来るのに。

……ああ、やっぱり、私はこの人が好き…。


良くんの顔が見れず、下を向き、顔を横にふった私は、「…されてない、」と自分の手を強く握った。


さっきまで会えて嬉しいって思ってなかったのに、私を心配してれて嬉しいっていう感情が凄くて。

そんな顔を見られたくて顔を下に向けた私に、良くんは何を思ったのか。



「じゃあ別れた理由は?」

「え?」

「裕太と別れた理由、嫌がらせされてた訳じゃねぇんだな」


ちがう、嫌がらせされてたからじゃない。
私が良くんを好きだから…。

あれ、なんで良くんが別れたことを?
誰かに聞いた?穂高?
私がたまり場に行かないから?


「ちが、う…、」


嫌がらせされてたと思ったから、良くんはわざわざ逢いに来てくれたの?
まだ続いてると思って?
私を助けてくれる良くん…。



「も、しかして、それを、聞くために、莉子に…連れてこいって言ってたの…?」


裕太に監禁されていた時。莉子と潤くんが助けに乗り込んできた時。



「──…、いや、それはお前が…」


私が? 何?
そう思って、少しだけ顔を上にあげた。



「何でもねぇ、…じゃあ別れた理由はあの女が鬱陶しいからじゃねぇんだな」

「うん…」

「だったらもう用はねぇ」


そう言った良くんは、本当に話は終わりらしく。まって、と、小さな声で呼び止める私に、再び良くんの顔が向けられる。


「あ?」

「も、もし、嫌がらせ、されてたら、どうしてたの…」

「…」

「私が、裕太の、元カノに…」


は、と、軽く息を出した良くんは、私と目線が合わさったまま。



「俺が女を潰すから、べつに別れなくていいって思っただけだ」


別れなくていい…


私と裕太が…。


嫌がらせが原因で、別れたのなら。


「良くん、」


名前を呼んだ私に、良くんは返事をしない。


「いつも、そういうことしてるの…?」

「あ?」

「いつもそうやって、メンバーの彼女を、影から守ってたの?」


鋭い目が、更に鋭くなる。
良くんはどれぐらい鋭い目付きになることが出来るんだろう?


冷たいのに、怖いのに。凄く目付きは悪いのに。1ミリも怖いと思わない私は、なんだか泣きそうになった。


暴君と恐れられている男…。

「メンバーを、殴るっていうのも、何かワケがあるんだよね」


だって、ワケもなく。
するはずないもの。
ねぇ、裕太…。
私を助けようとしてくれてるこれも、私がいいように美化してるって思う?


「どうしてそれを…みんなに言わないの…」

「お前、」

「言うべきだよ…」

「……」

「良くんは、ほんとうは、凄く優しいって…」

「……何言ってる…」

「みんなを守ってるって、チームの事を考えてるって…」


涙腺が熱くなった。
理由はわからない。


もしかしたら嬉しかったのかもしれない。やっぱり良くんは、私の知っている良くんだったから…。


ポロポロと涙が出てくる。
涙っていうのは、出てしまえば止まらないもので。


頬へ伝うそれを見て、鋭い目を見開かせた彼は、…険しい顔をするだけで、やっぱり、何も言わないけど。



「別れた、のは、嫌がらせじゃない…」

「おい、」

「私が他に、好きな人がいるから…」

「……男?」

「あ、あた、し、」



あなたが、好きなの。
そう言いたいのに、言うことが出来なかった。
まだ裕太との話し合いが終わってないからか。
それとも、涙のせいで、喉が詰まったからか。



「この前の、電話、」


良くんが呟いた時、ぽた、と、制服に涙が落ちた。


「お前」


電話…。



「俺が好きで、裕太と別れたのかよ?」



ああ、そうだ、…私は1度、彼に電話をしてる。彼に助けを求めて。あの時、確か、確か私は、良くんに言った…。




「あれ…、聞き間違いじゃなかったんだな…」


良くんがそう言った直後だった。
「遥!!」という声が、背後から聞こえ。


その声の大きさのトーン。
怒鳴り方。
あの時の怖い裕太の声と重なったからか、その声を聞いた瞬間、肩がビク!!っと動いた。


そしてそれを見た良くんが、今日で1番の目の細め方をしたのが先か。怒鳴った男が私の腕を掴んだのが先か。


「──…っ、人の女とってんじゃねぇよ!!」


良くんに向かってそう言った裕太は、私の腕をひくと、そのまま私を連れ去るように、まるで引きずるようにその場から離れていく。

その腕を掴む強さ加減に、顔を顰めた。




「おい、っ、裕太!」

「やばいって、」



私を連れ去る裕太に、莉子と潤くんが止めようとするけど、全く止まる気配のない裕太は、相当苛立っているらしい。


私が良くんと喋ってたから…。


「来んな!!」


ギシギシと、骨が鳴りそうなほど掴まれ。
今度は痛みと恐怖で涙が止まらなく。


良くんの声も聞こえない。
潤くんも、莉子も…。



最後に聞こえたのは、多分、莉子の声。






学校近くの、公園の、車椅子用の公衆トイレ連れ込まれた私は、ようやく裕太から解放されて。ジンジンと痛む腕をさすれば、「…ふざけんなよ」と、裕太はそこの鍵をガチャンと閉めた。



その音を聞いて、体が震えた。


また、また、だ。


鍵が届かない、開けられない、逃げられない。
父親の時と一緒。



「ゆ、」

「なに、見せびらかしたかったわけ? その為に俺を呼び出した?」


壁に追い詰められ、その壁に腕をつく裕太は、冷たく私を見下ろす。
その目に〝怖い〟と感じ取ってしまった私の体の震えは止まらなかった。

無意識に顔を腕で隠そうにも、体が震えて何もできない。


「ち、が、」

「なんであいつがいんの?」


なんで。いるのか。
良くんが心配してくれた。
嫌がらせで別れたのなら、良くんが元カノを潰すから裕太と別れる必要はないと。


「ゆ、」

「バカにしてんのかよっ、ふざけんなよ!!」


ガン──…!!と、壁を蹴る。

足を蹴られた訳でもないのに、足がガクガクして。



「ま、って、良くんが、来たのは、」

「いきなり来たってあの子が言ってたな? けどそんな偶然ある訳ねぇよ。遥が呼び出したんだろ?」


そんなこと、してない。

ほんとに…。


知らない。



必死に首を横にふるけど、怒りの頂点に達しているらしい裕太がもう一度壁を蹴りつけ。





「…もう、いいわ、…なんかもうどうでもいい…」





まるで、感情のない声で、裕太が呟いた…刹那、だったと思う。





裕太が、腕を振り上げたのは──




悲鳴をあげてた。
震える足は走って逃げられなくて、ただしゃがみこんだだけ。
汚い公衆トイレにしゃがみこんでしまった私は、今度こそ必死に腕で頭を守った。



それを見て、ボロボロ涙を流し「ごめんなさい…ごめんなさい…」って謝る私に膝を折って追いかけてきた裕太が、私の頬を片手で挟むように掴むと、強引に上へ向かせ。


頭を守っているはずなのに。全く機能してないその腕は、力が入っていなく脆かった。



滝のように涙を流すそれを見て、ぴく、と、眉を寄せた裕太が…、頬を掴む手をはなし…



「……ごめん」


頬を掴んでいた手を壁につき、顔を近づかせた裕太に、体が動かなかった。



ゆっくりと、ふれた、


その力加減には、全く痛みなんて、無かった。



それなのに涙を流し、肩を震わせ、裕太のキスを怖いと思ってしまった──…




私の耳に、


「ばいばい、遥」


裕太の声が聞こえ。



ドガン!!!と、車椅子用の公衆トイレの扉の方から、耳が壊れるような音が聞こえたと思えば、




私の傍から、裕太はいなくなっていた。



汚い地面に、尻もちと手のひらをつき。



私の視界に入ってきたのは、良くんが裕太の胸ぐらを掴んでいる姿。



「…なにしてる」

「……」

「何してるって聞いてんだろ!!!」


公衆トイレ内に、良くんの怒鳴り声が響く。中に入ってきた莉子が、私の体を起こす。
震えて泣いている私を見て、顔を顰めた莉子は「また無理矢理、抱こうとしたの?」と裕太を睨みつけた。


莉子の言葉に、ピクリと反応した良くんの胸ぐらを掴む手が強くなった気がして。




ちがう、
ちがう。

裕太は、なにも、


なにも、してない──…



それなのに私の喉からは声が出ず。



「うるさい…!!」



そう怒鳴る裕太の頬を、良くんが殴りつけた。鈍い音がした。扉の方に飛ばされた裕太は、「もう会わねぇよ…」と良くんを睨みつけたあと、少しふらついた足取りで外へ出ていく。

「おい、裕太…」と、潤くんが裕太を追いかける。



完全にトイレから出ていった裕太に、舌打ちをした良くんは、私に顔を向け。



「そいつから聞いたけど、裕太に無理矢理やられたのか」



そいつ、莉子から?

そう思って莉子を見れば、ごめん、と、言っちゃった…みたいな顔をしてて。


多分、さっき、言ったんだと思った…けど、何も言えなかった。

言うことが出来なかった。




「さっきみたいなの、初めてじゃないんだな」


──答えろ、と、低くそう言った良くんに、反応したのは莉子だった。


「そ、うです、アザとかもあった…よね? 遥」


それに首を横に振った。
もうこれ以上、裕太を悪者にするのは嫌だった。だって全部、中途半端な私が悪いのに。



「殴られてたのか」


首をふる。
殴られてない。
殴られたことは1度もない。


「あ、あたしが、悪くて、」

「はっ、違うし! 原因は遥でもやっちゃいけない事あるから!!無理矢理とか殴るとか、男が女にしていいわけないでしょ!!」

「ちが、う」

「何が違うのっ!」

「裕太は何も悪くない…」



どうして私が可哀想なヒロインのようになっているのか。
どう考えても、悪いのは私なのに。



それなのに「殺す…」と良くんが裕太を追いかけようとするから、必死にその腕…、良くんの服を掴んだ。



裕太と同じ、学ランを。


「やめ、て、やめて、私が悪いのっ…」

「離せ」

「ごめんなさい…」

「…おい、」

「あたしが、」



ぎゅっと服を掴む。無我夢中だった。
今ここで、良くんを裕太の元へ行かせてはいけない。

震える手で、ずっと服を握りしめていた。
ここのトイレの床に手をついたのに。汚いのに。汚いことを分かっているのに、離すことができない…。




「…──無理矢理やられたのはいつだ?あいつの女の時もやられてたのか」


良くんの質問に答えられない。
無理矢理やられた…。
付き合っている裕太に…。
確か初めて無理矢理されたのは、クリスマスの時。




「遥」



低い声が、私の名前を呼んだ。
その声に、簡単にピタリと涙が止まった私は、戸惑い混じりで彼を見つめた。




「誰であろうと、チームの女に手を出すのは許さない、例えそれが自分の男でもだ」


私を見つめる良くんの目は、鋭い、けど。


「分かったら離せ」


やっぱり全く、怖いとは思わない。



「いま、は、もう、別れてる…」

「やられた時は付き合ってたんだろ」

「あたしが悪いの!」

「お前が悪いのは今は関係ねぇ、やったかやってねぇかどっちかだ」

「私が悪いの!!!」

「だからお前は関係ねぇ」

「お願いっ、行かないで!!!」



叫ぶ、私に、良くんの眉がよる。



「遥…」

私の背中に、莉子の手が添えられる。



「あ、たし、が、好きで、、おこってる、の…」


だから。


「裕太は、何もわるくない…」



誰が好きなのか、もう言わなくても分かると思った。良くんが好き。好きなの。


「…俺の事、好きなのか、」


そう聞いてくる良くんに、頷く。


「別れた原因が、俺を好きだから?」


それにも、頷き。


「あいつがキレてんのは、それが理由か?」


また、頷く。


「さっきも、俺がお前に会いに来たからキレたのかよ」


それは、ちがう。
会いに来た、からじゃない。



くびをふった私は、「ちがう…」と言い。


「裕太と、話し合おうと思った…。私と話すのが嫌っていう裕太を無理矢理 潤くんに連れてきてもらった…。それで、来た、と、思えば私が良くんと話をしてるから、怒った…」


あと、


「私が、良くんと関わらないって、裕太と約束したのに…。私が裕太との約束破ったから…だから……、」



視線を下に向けた、私に、良くんはどんな目で私を見ているのか。


「…そうか」と、呟いた良くんは、良くんの服を掴んでいる私の手に重ねるように、自身の手を置いた。



「……追いかけねぇから、離せ」


指先が、震えるのに。離せない。



「遥」



私の名前を呼ぶ彼に、心臓が鳴る。



「すき、」

「……」

「すきなの…」

「……」

「好きになって、ごめんなさい…」

「分かった、分かったからもういい泣くな。鬱陶しい」


鬱陶しいと言う男は、私の指に触れるだけで、無理矢理引き剥がそうとはしなく。


優しい男は、「俺が裕太と話するから、お前暫く隠れてろ」と、低い声でそう言った。



「…ごめんなさい…」

良くんなら、振り払えるはずなのに。殴ることさえ出来るはずなのに。それをしない。


隠れてる、どこに、
裕太と何を話すの…。



「…家まで送る。…お前、2人追いかけて夜にたまり場来いって言っとけ」

「えっ?!」



良くんは汚い公衆トイレから、私を連れ出す。驚いている莉子を無視して、ずっと良くんの服を掴んでいる私は、良くんから離れられず。


家まで送ると言った良くんは私の家を知らないはずなのに、歩き出す。私よりも高い身長。だから歩くのは私よりも歩幅が広いはずなのに、私に合わせてくれているらしい彼…。


公園から離れ、駅の方に行き。「電車?」と聞いてくる良くんに頷き。「どっち方面」とICカードを取り出す良くんは、ほんとうに私を送ってくれるらしい…。

電車に乗り込む時も、掴んでいる服を離さず。
その光景を見ている他校生たちが、「あれ…」
とヒソヒソとした声が聞こるけど。


「顔隠せ、下向いとけ」と良くんが言うから。言われた通りにずっと顔を下に向けていた。


家の最寄り駅につき、「どっち」と聞く良くんに、その道を指をさす。

そして歩き続ける良くんに、「…ごめんなさい…」ともう一度謝れば、「鬱陶しい」と言われる。



「巻き込んでごめんなさい…」

「うぜぇ」

「ほんとに、全部、あたしが」

「もう聞いた」

「良くん…」

「……」


好き…



すき、



離したく、ない。



「…俺なんかのどこがいいんだ…」


あと家まで五分ほどの距離の時、それを言われた。


「優しいところ…」

良くんの振り向く気配がした。



「ぜんぶ、」

「……」

「ぜんぶ、すき」

「……」

「ごめんなさい…」

「……」

「ごめん、…ゆうた…」




話し合いをしてから、言うって、決めていたのに……。


ごめん、ごめんなさい、



立ち止まる、私に、良くんの足も止まった。


「〝好き〟とか、そういう感情は自分でどうにかなるもんじゃねぇよ…」

「うっ…」

「ンな泣くほどじゃない、謝ってもうぜぇだけなんだよこっちは」

「っ、ごめ、…」

「裕太のとこに戻れって言ってるわけじゃねぇけど」

「っ……」

「やめとけ、俺は。さっきの電車でも見ただろ、乗っただけでアレだ」

「…っ、ぅ、」

「俺なんかのどこがいい…」

「…っ、じゃ、い」

「他にもいい男はいる」

「…、だ、もん」

「俺なんかやめとけ、もう裕太とも距離おけ、あいつが族だってこと忘れるな」


族…。



「っ、〝なんか〟じゃないっ、良くんはずっとずっと優しいもん!!良くん以外にいい男なんていない!!」

「……」

「なんでみんな分からないのっ、なんでっ、」

「……」

「こんなにも、優しいのに…っ」

「……」

「裕太も、っ、チームの人たちも、良くんのことなんで分からないのっ!」

「チームの奴らの事悪く言ってんなら殴るぞ」

「……っ、…良くんがいつも喧嘩してるのは、チームの人たちの悪口を言われたから?!」

「……」

「なんでそれが暴君で片付けられるの?!」

「……」

「どうしてみんな気づかないの…」



今度は、掴んでいるそこに、顔を埋めた。
良くんは言わない。やめろとか。離せとか。
殴りもしない。



「気づかなくていいこともある」


気づかなくていいこともある?

何を言ってるの。




「俺の悪口でチームが仲良くなるんだ、それでいい」


なに、、なに、言ってるの。
良くんの悪口で?
穂高のところへ行くという噂が流れている…。
チームを守っている良くん…。
良くん以外は、仲がいい…。


「人数が多いと、組織っていうのは派閥ができる。そういうもんだからな」

「おか、しい、そんなの、」

「何がおかしい、1人が悪役を買えば派閥はできない。チームの解散にもなんねぇ」

「良くんが背負うことないっ」

「誰かが背負う」

「ひ、ひ、ひじり、さんたちも、それを黙認してたの?!」

「…」

「良くんが悪役を買うのに、何も言わなかったの?!」


総長として、それはどうなの?
幼なじみなんでしょ?
幼なじみに、そんなことをさせてもいいの?!



「いや、…聖たちは、何も知らねぇ」


なに、言ってるのか。
知らない?
え?

どういうこと?


「聖たちはただ俺が暴れてるだけと思ってる、聖こそ優しい…薫も。昴も。すぐにやめさせれる。お前がンな事する必要ねぇってな」

「…嘘を、ついてる、ってこと?」

「そうなるな、女嫌いって言っとけば、女を殴ってもそれほど問題にはなんねぇし」

「……良くん…」

「これを知ってるのは穂高とお前だけ、やっとあいつらは引退したしな、無事に卒業も…」


穂高…。
引退…。
無事に卒業?

無事に卒業させるために、良くんが影でチームをまとめてた…。


「……どうしてそこまで、聖さんたちを…」

「あいつらは命の恩人だから、それだけだ」



命の恩人?



「だから俺はこの立ち位置をやめるつもりはねぇ、男でも女でも殴る」



やめるつもりは無い。

男でも、女でも、



「…どうして、今の話を…あたしに…?」


穂高だけしか、知らない話を…。


「今言ったろ、やめるつもりはねぇ。女ができればその女はどうなる? 最悪殺される」

「…真希ちゃんのときみたいに?」


拉致られるかもって?


「知ってんのか?」


知ってる、穂高から、聞いたから。

「知ってんなら、分かるだろ、どうなるか」


どうなるか…。
暴走族の、敵に捕まればどうなるか。
レイプどころじゃ済まされない。


「…良くん…」

「お前が好きだって言ってきても俺は女を作らない、今のを変えるつもりねぇから」



私をふるために、事実を話してくれた男。




「じゃあ、引退すれば…?1年後、でも…」

「やめとけ」

「あたし、良くんなら、…何だっていい…」

「何回も言わすな」

「真希ちゃんは付き合ってる…!」

「穂高と俺は違う」

「何が違うのっ…」


敵が多いのは、同じでしょう…?



「お前に何かあったとき、俺はチームを動かせない、あいつは動かせる。全く違う」

「…っ、そんなの、」

「やめとけ、俺なんか」



だから〝なんか〟じゃないって言ってるのに……。



私の頭にふれる、良くんは、やっぱり優しく。



「良くんと、もう関わらない方が、いい?」

「さっきからそう言ってる」

「も、私の事、助けてくれない…?」

「もうチームの女じゃねぇしな」

「今日は、助けて、くれたのに…?」

「裕太の落とし前付けてるだけだ」

「すき、」

「うぜぇぞ」

「すき、なの」

「……」

「ごめん、これが、最後だから──…」



良くんの服に顔を埋め、泣く私に、良くんの手のひらが頭を包む。撫でることはない。
ただ置いているだけ。

その手は裕太とは違い、慣れている訳ではなく。
ぎこちないそれなのに凄く心地よかった。







「……いつでも電話してこい」



私の番号を登録している男は、最後の最後にずるいことを呟いた。









良くんは分かってたんだと思う。
分かっててあんな事を言ったんだと思う。
電話をしないって、分かってて──…


そう思って耳にスマホを当てる私は、『なんか、遥の言ってたこと分かるかも…』と、自室のベットの上で、それをぼんやりと聞いていた。



『なんか、良いように、印象変わったな…』
と良くんのことを言う。
良くんについ1時間ほど前、ふられてしまった私は、分かっていたはずなのに落ち込みが凄く。



「裕太は…? 」

『裕太くん? なんか不機嫌だったけどなんも喋らなかったよ』

「そっか…」

『もういいの?』

「うん…、また裕太と約束破っちゃったし、好きって言っちゃった。もう距離…あけようと思う…」

『そう、…高島は?』

「また、電話しろって…」

『するの?』


ううん、できない──…

もう…。


「分からない」


ずるい私は、それを口にする。


『まあ、良かったじゃん、落ち着いた、というか…』


落ち着いた、落ち着いた、のか。
まだ、解決できていない、のに。


「莉子…」

『もう諦めるの? こんな騒ぎなって』

「分からない…」

『もう1回ぐらい言いなさいよ』

「うん」



でも、もう、無いと思う。
良くんは私に連絡はしてこないと思うし、私はきっと良くんに連絡をしない…、事実を知ってしまったから。


大好きな良くん…。




そんな良くんに連絡をしたのは、春休みに入る前の事だった。



〝そいつ〟が目の前に現れ、逃げる私は必死にその人に電話をした。「助けて」と。





夏の季節が、近づいてくる──…



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