みずたまりの歩き方

「古関さんは、女流棋士になりたいんですか?」

急に話が自分に向いて、美澄はわずかに動揺した。

「なれたらなりたいと思ってます」

「なれませんよ」

そんな厳しい言葉をあまりにも普通の声で言うので、美澄は傷つく以前に、聞き流してしまいそうになった。

“女流棋士”とは、奨励会を抜けた“棋士”とは別で、将棋の普及啓発を目的に女性だけで構成された棋界である。

女流棋士になる方法は大きく三つあって、ひとつはアマチュア参加枠のある女流棋戦に参戦し好成績を残すこと。
もうひとつは奨励会に入会すること。
そして一番主流なのは、奨励会の下部組織である「研修会」に入会して昇級していく方法だ。

研修会は上からS、A1、A2、B1、B2、C1、C2、D1、D2、E1、E2、F1、F2とクラス分けがされていて、一番下のF2クラスはだいたいアマチュア二段程度の棋力だとされている。
そこでB2クラスに昇級できれば、女流2級の申請ができるシステムになっている。

女流棋士は“棋士”よりも、入口の棋力は低く設定されているが、それでも美澄の現状では、F2クラスにも合格できるかどうか、というところだった。

「でも、平川先生は『女流棋士になれる』って言ってくれました」

小学生かと思うほど幼い声が出た。
久賀もまた、幼子に与えるような眼差しを美澄に向ける。

「そうですね。平川先生は簡単に言う人だから」

初めて見せた久賀の微笑みは泣き顔でしかなく、否定されている美澄よりも悲しげだった。

「僕も言われました。『棋士になれるよ』と。でもなれませんでした」

久賀は棋士を目指して、夢破れたひとだったのか。
わずかに見せた感情はすぐに消された。
パソコンの方がまだしも熱を持っているくらい、久賀の表情には何もない。

「古関さんはまだ大学生でしょう? 何にでもなれる、とまでは言いませんが、選択肢は無数に存在します。将棋界じゃない方がいいと思います」

久賀はパソコンの電源を落とした。
手持ち金庫と入会申込書を大型の金庫にしまって鍵をかける。

「先生は、将棋がきらいなんですか?」

ギンガムチェックの背中に向かって問いかけても、久賀は振り向きもしなかった。

「そんな話はしていません」

「さっきからそう言ってるように聞こえるんです」

久賀はモップを片づけ、キッチンの電気も消した。
紺色のダウンコートを着てリュックを背負うと、カウンターを出て来て美澄と向き合う。

「分の悪い賭けにわざわざ出る必要があるのかな、って思うだけです。今ならたくさんある選択肢も、年々減っていくのが実情なのに、可能性の低い賭けに時間を費やす必要があると、僕には思えません」

救急車のサイレンが近づいてきて、久賀は言葉を止めた。
それは徐々に大きくなり、すぐそばを通ってまた遠ざかっていく。
ブラインドの隙間から赤いランプがチラチラ見えた。

「棋士になるのはゴールではありません。その後何年も何十年も将棋に人生を捧げるということです。棋士は幼い頃から、その覚悟を問われてきました。挫折して棋界を去る人の方がずっと多いんです。昨日今日将棋に興味を持ったばかりのあなたの情熱が、一過性のものでない、と言えるだけの根拠はありません」

提示された未来はあまりに暗く、けれど勢いだけで跳ね返すことはできなかった。
奥歯がギリッと擦れる。

「僕は『将棋は苦しい』って、思ってもらいたくないんです」

またわずかに見えた感情に、美澄はすがる想いで手を伸ばす。

「でも先生。私はそれでも『頑張れ』って、言ってもらいたいです」

久賀は返事どころか、まばたくこともしなかった。


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